飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧|なぜ19の遺跡で一つの世界遺産なのか

飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧

百余国に分かれていた倭の世界から、一つの「日本」へ。

中国の古い史書には、そこで「倭人」と呼ばれた人々の社会が「百余国」もの小さなまとまりに分かれていた、と記されています。これは、飛鳥時代よりも何百年も前の話です。やがて倭王を頂点とする広域的な政治秩序が生まれ、ヤマト王権が形成・発展し、5世紀には「倭の五王」が中国の王朝と外交を行うまでに成長します。その長い王権形成を土台として、国のしくみそのものをつくり変えていった転換期が、「飛鳥・藤原の宮都」の時代です。

「飛鳥・藤原の宮都」は、2026年7月26日、第48回世界遺産委員会で世界遺産一覧表への記載が決まり、世界遺産に登録されました(英語名:Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara)。奈良盆地南部の橿原市・桜井市・明日香村にまたがる一帯に残る、宮殿・官衙跡(きゅうでん・かんがあと)、仏教寺院跡、墳墓(ふんぼ)という三つの種類の遺跡、あわせて19件で構成されています。

では、なぜ、飛鳥宮跡のような宮殿の跡と、飛鳥寺のような寺院の跡と、石舞台古墳や高松塚古墳のような墓とが、まとめて一つの世界遺産なのでしょうか。

先に、この記事の結論をお伝えします。

19の遺跡を時代の流れに沿ってつなぐと、政治だけでなく、寺院、墓、水、時間、儀礼、都市のつくり方まで変わりながら、律令国家「日本」へ向かっていった姿が見えてきます。

この記事は、19件を一つずつ同じ分量で解説する「史跡の事典」ではありません。19件をつないだときに見えてくる「変化」を主役にして、古代国家が形づくられていく過程を、初めての方にも分かるように読み解いていきます。

百余国からヤマト王権、飛鳥・藤原を経て律令国家日本へ向かう国家形成の流れ
みこ

このページでは、19の遺跡を一つずつ覚える必要はありません。まずは「百余国からヤマト王権へ、そして飛鳥・藤原で国家の仕組みが整っていく」という大きな流れをつかんでください。

この記事でわかること

  • 「飛鳥・藤原の宮都」がなぜ19件で一つの世界遺産なのか(登録基準(ii)(iii)の考え方)
  • 宮殿・官衙跡/仏教寺院跡/墳墓の3分類が、国家形成のどこを示しているのか
  • 飛鳥の宮都から藤原京へ、都のつくり方がどう変わったのか
  • 19構成資産の一覧と、各遺跡を詳しく知るための個別記事への入口

歴史や各遺跡の詳しい見どころ・アクセスは個別記事にゆずり、この記事は19件の全体像と「つながり」をつかむための入口(親記事)です。

藤原宮跡に広がる原野と大和三山を望む風景
藤原宮跡に広がる原野。飛鳥から藤原へ、宮都の広がりを想像する入口になる風景です。
目次

「百余国」から倭の五王へ――飛鳥以前に広域的な王権は生まれていた

まず出発点として、「日本」という一つの国が最初から存在していたわけではないこと、そして、飛鳥よりずっと前に、列島の広い範囲を束ねる王権が育っていたことをおさえておきましょう。

中国の史書に記された「百余国」

史料では、中国の歴史書『漢書』地理志に、中国の史書が「倭人」と呼んだ人々の社会には百余国があった、と記されています。多くの小さな政治的まとまりが、それぞれに存在していた、という記述です。

ただし、これは弥生時代にあたる、飛鳥時代より何百年も前の姿です。飛鳥・藤原の19構成資産が語る時代とは、大きな時間の隔たりがあります。ここでは、「一つの国家が最初からあったのではなく、長い時間をかけて形づくられていった」という出発点として押さえてください。

倭王を頂点とする広域的なまとまりへ

史料と発掘・研究では、3世紀ごろになると、各地の有力者どうしが結びつき、倭王を頂点とする広域的な政治秩序が形づくられていったと考えられています。各地に前方後円墳のような共通のかたちをもつ大きな古墳が築かれたことは、地域を越えた有力者どうしの関係や、共通の秩序を考える手がかりとされています。

「百余国」の分立から、倭王を中心とする広域的なまとまりへ。飛鳥に都が営まれるより何世紀も前に、この大きな変化は始まっていました。

5世紀、倭の五王とヤマト王権

史料では、中国の歴史書に、5世紀の倭国の王として讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)という五人の王――いわゆる「倭の五王」――が登場します。五王は中国の南朝へたびたび使者を送り、「倭国王」として東アジアの外交の舞台で活動しました。

これは、ヤマト王権と呼ばれる王権が形成・発展していた時代の、特に中国の史書から見える対外外交上のひとつの局面です。列島の広い範囲を代表して外交を行う王が立っていたことは、王権の成長を示す重要な手がかりとされています。なお、五王が『日本書紀』のどの天皇にあたるかには諸説があり、この記事では特定の天皇に断定しません。

飛鳥・藤原が示すのは「統一の始まり」ではなく中央集権化

つまり、飛鳥・藤原の19構成資産が伝えているのは、百余国が初めて一つにまとまった瞬間ではありません。飛鳥以前に形成・発展していた広域的な王権を土台として、政治・行政の機能を中央へ集め、共通の法や制度で運営する国家へと再編していった段階です。

みこ

ポイントは、「百余国からいきなり飛鳥で日本になった」のではないことです。飛鳥以前に育っていたヤマト王権を土台に、国の運営方法そのものが変わっていきました。

ひとくちに「一つの国になる」と言っても、その中身は段階的に変わっていきます。

  • 第1段階|広域的にまとまる:百余国 → 倭国・倭王・ヤマト王権
  • 第2段階|政治・行政機能を中央へ集める:飛鳥(宮・官衙・儀礼・仏教・時間管理など)
  • 第3段階|制度と宮都を形にする:藤原(律令・官僚制・計画的宮都・国家寺院)→ 律令国家「日本」

この記事がこれから読み解くのは、第2段階と第3段階=飛鳥・藤原の時代です。長い王権形成の先にある「国家への再編」を、19の遺跡から見ていきます。

「和を以て貴しとなす」――飛鳥で新しい政治秩序が模索される

飛鳥以前には、すでに列島の広い範囲を束ねる王権が形成されていました。では、その王権を、より共通の政治秩序や制度によって運営する国家へ変えていくには、何が必要だったのでしょうか。飛鳥は、その模索が進んだ舞台でした。

十七条憲法に伝えられた「和」

史料では、『日本書紀』に、推古天皇の時代(604年)に十七条憲法が定められたと記され、その第一条として「和を以て貴しとなす」と伝えられています。

この「和」は、「日本人は昔から仲が良かった」という文化のお話ではありません。ここでは、立場や利害の異なる豪族たちが、共通の政治秩序のもとで一つの国を動かしていく必要があった――その課題を考えるための入口として受け止めてください。

豪族だけの利害を超えて政治を動かす

それまでの政治は、有力な豪族それぞれの力の大きさに左右されがちでした。十七条憲法には、朝廷のもとで政治に携わる人々に、和や秩序を求める内容が記されています。この記事では、その言葉を、有力者それぞれの利害だけではなく、共通する政治秩序のもとで国を運営しようとする方向を考える手がかりとして読みます。

みこ

「和を以て貴しとなす」は、聖徳太子が一人で日本を統一したという意味ではありません。史料に記された政治理念と、そこから国家形成を読み解く現代の解釈は分けて考えましょう。

仏教と東アジア交流がもたらした変化

同じころ、大陸や朝鮮半島から仏教という新しい宗教と、それにともなう建築・美術・文字・技術が伝わりました。新しい信仰と文化は、豪族たちの結びつきや、国のまとまりのつくり方にも影響を与えていきます。

この「新しい宗教と文化の入口」を、今に伝えているのが飛鳥寺跡です。次の章では、まず飛鳥の宮都で「国の仕組み」がどう育っていったのかを見て、そのうえで寺院の変化へと進みます。

飛鳥の宮都|政治・水・時間・儀礼から「国の仕組み」を見る

飛鳥・藤原の宮都19構成資産を宮殿・官衙跡、仏教寺院跡、墳墓の3分類で示した図

飛鳥の宮都は、ただ天皇の住まいがあった場所ではありません。政治の中心であると同時に、水の管理、時間の管理、儀礼の場など、国を動かすための仕組みが育っていった場所でした。ここでは4つの遺跡から、その仕組みを見ていきます。

飛鳥宮跡――政治の中心

発掘・研究では、飛鳥宮跡は、7世紀に同じ場所へ複数の時期の宮殿が重なって営まれた跡と考えられています。天皇の代替わりごとに宮を移していた時代から、しだいに一か所に政治の中心が定着していく――その動きを示す、飛鳥の政治の中枢です。

→ 詳しくは個別記事「飛鳥宮跡の見どころ」へ。

飛鳥宮跡の遺構区画と柱位置表示が見える現地の景観
飛鳥宮跡では、遺構区画や柱位置表示を手がかりに、政治の中心だった場所を想像します。

飛鳥京跡苑池――宮廷の空間と儀礼

飛鳥宮に付属したとされる苑池(えんち=庭園)の跡です。発掘・研究では、石組みで整えられた池がみつかっており、宮廷の場を彩り、儀礼や饗宴(きょうえん)の舞台にもなったと考えられています。政治の中心のそばに、こうした整えられた空間があったことは、宮のすがたを考える手がかりになります。

→ 詳しくは個別記事「飛鳥京跡苑池の見どころ」へ。

飛鳥水落遺跡――「時」を管理する技術

飛鳥水落遺跡は、漏刻(ろうこく=水時計)に関わる施設とされる遺跡です。史料では『日本書紀』に、斉明天皇(さいめい)の時代に漏刻が置かれたことが伝えられ、発掘・研究では、その記述と関連づけて考えられる遺構がみつかっています。

国が「時間」を管理し、人々に知らせるということは、役所の仕事や儀礼を、共通のきまりで動かしていくための土台になります。水落遺跡は、国の仕組みが技術の面からも整えられていったことを示す遺跡です。

→ 詳しくは個別記事「飛鳥水落遺跡の見どころ」へ。

酒船石遺跡――水と石造物から儀礼を考える

酒船石遺跡は、丘の上の酒船石と、谷部の亀形石造物(かめがたせきぞうぶつ)・湧水施設などからなる遺跡です。発掘・研究では、水を導く仕組みをもつ石造物であることが分かっています。

ただし、その具体的な用途は確定していません。水を用いた儀礼と結びつける見方などが示されていますが、ここでは「用途は一つに断定できない」という点を大切にしてください(解釈と、確認された事実を分けて考えます)。

→ 詳しくは個別記事「酒船石遺跡・亀形石造物の見どころ」へ。

亀形石造物と周囲の石組みが見える酒船石遺跡の谷のエリア
亀形石造物エリアでは、水を導く石造物と石敷広場を、儀礼を考える手がかりとして見ます。
みこ

飛鳥宮跡だけを見るより、苑池・水落遺跡・酒船石遺跡までつなげて見ると、政治だけでなく、儀礼・水・時間まで「国を動かす仕組み」だったことが見えやすくなります。

寺院の変化|仏教の受容から国家寺院へ

飛鳥・藤原の宮都には、仏教寺院の跡が7件含まれます。7件を並べると、仏教が新しく受け入れられた段階から、氏寺など性格の異なる寺院が各地へ広がり、やがて国家を支える寺院(官寺)が成立していく流れが見えてきます。7つの寺院跡が伝える情報は、それぞれに大切なので省きません。ただし、各寺院の細かなアクセス・駐車場・見学条件は各個別記事にゆずり、ここでは「国家形成の流れのどこを示すのか」を中心に整理します。

飛鳥寺跡――新しい宗教と文化の入口

発掘・研究では、飛鳥寺は日本でも初期の本格的な仏教寺院とされ、史料では『日本書紀』に、6世紀末(596年に堂塔が整ったと伝えられる)に営まれたことが記されています。有力豪族であった蘇我氏が関わったとされ、大陸から伝わった建築・技術・信仰が、この地に根づいていく入口となりました。

→ 詳しくは個別記事「飛鳥寺・飛鳥大仏の見どころと拝観案内」へ。

青空の下に見える飛鳥寺の外観
飛鳥寺は、仏教と大陸文化が飛鳥に根づいていく入口として見ると位置づけがつかみやすくなります。

橘寺・山田寺・川原寺・檜隈寺――寺院文化の広がり

飛鳥寺に続いて、飛鳥の各地に寺院が営まれ、寺院の文化が広がっていきます。

  • 橘寺跡(たちばなでらあと):国史跡「橘寺境内」。史料・伝承では、聖徳太子ゆかりの寺と伝えられます(伝承として扱い、史実として断定はしません)。→ 「橘寺跡・橘寺の見どころ」へ。
  • 山田寺跡(やまだでらあと):蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)にゆかりがあるとされる寺の跡。倒れた状態で出土した回廊の部材が、奈良文化財研究所の飛鳥資料館で展示されています。→ 「山田寺跡の見どころ」へ。
  • 川原寺跡(かわはらでらあと):飛鳥の主要な寺院の一つの跡。隣接して現在の弘福寺(ぐふくじ)があります。→ 「川原寺跡・弘福寺の見どころ」へ。
  • 檜隈寺跡(ひのくまでらあと):渡来系の氏族と関わるとされる寺の跡で、現在は於美阿志神社(おみあしじんじゃ)の境内にあたります。→ 「檜隈寺跡・於美阿志神社の見どころ」へ。

飛鳥寺に続いて、有力氏族の氏寺(うじでら)を含め、王権とも関わる性格の異なる寺院が、飛鳥の各地に営まれていきました。山田寺や檜隈寺のように有力氏族との関係が明確な寺院がある一方、川原寺のように天皇の発願とされ、のちに官寺として位置づけられた寺院もあります。こうした寺院の広がりは、仏教が社会と政治のさまざまな層へ浸透していった過程を伝えています。

大官大寺・本薬師寺――国家を支える寺院へ

さらに藤原京では、大官大寺・本薬師寺という国家寺院(官寺)が、都の計画のなかに位置づけられていきます。

  • 大官大寺跡(だいかんだいじあと):藤原京の時期に計画的に配置された国家寺院の跡。→ 「大官大寺跡の見どころ」へ。
  • 本薬師寺跡(もとやくしじあと):藤原京に営まれた薬師寺の跡。金堂跡と東西両塔跡に基壇や礎石が残ります。平城京の薬師寺との関係には諸説があり、断定はしません。→ 「本薬師寺跡の見どころ」へ。

氏寺など性格の異なる寺院が広がるなかで、国家寺院が成立していく過程は、宗教の面から国家形成を見る重要な手がかりです。

みこ

7つの寺院が、同じ道筋で「氏寺から国家寺院へ変わった」わけではありません。それぞれ成立事情や王権との関係が異なります。ここでは、寺院文化全体の広がりと国家寺院の成立という流れを見ています。

古墳の変化|豪族の墓から新しい王権の墓制へ

墳墓(古墳・陵)も、国家形成の大切な証拠です。飛鳥・藤原の墳墓を並べると、有力豪族が巨大な墓を築いた時代から、天皇(王権)を中心とする新しい墓のあり方へと変化していく過程が見えてきます。なお、古墳の被葬者(葬られた人物)には、確定しているものと研究上の説にとどまるものがあります。ここでは「説」「伝えられる」と区別して紹介します。

石舞台古墳・菖蒲池古墳――豪族の時代を考える

  • 石舞台古墳(いしぶたいこふん):巨大な石を組んだ石室をもつ方墳。有力説では、有力豪族であった蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とする見方がありますが、確定はしていません。巨大な石室は、当時の豪族の力の大きさを物語ります。→ 「石舞台古墳の見どころ」へ。
  • 菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん):2基の家形石棺をもつ方墳。被葬者には諸説があり、断定はしません。→ 「菖蒲池古墳の見どころ」へ。
山並みを背景にした石舞台古墳の全景
石舞台古墳では、露出した巨石から、豪族の時代の力と墓制を考えます。

牽牛子塚古墳――八角墳という新しい墓の形

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、八角形に復元された終末期の古墳です。有力説では、斉明天皇の陵とする見方があります(断定はしません)。前方後円墳のような大きな墓ではなく、八角形という特別な形が選ばれていることは、王権の墓が新しい段階に入ったことを示す手がかりと考えられています。→ 「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の見どころ」へ。

白い切石で復元された牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳では、八角形という墓の形に、新しい王権の墓制を見る手がかりがあります。

天武・持統天皇陵古墳・中尾山古墳――王陵の変化

  • 天武・持統天皇陵古墳:天武天皇・持統天皇の合葬陵として、宮内庁が「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」と治定・管理しています(文化財の指定ではなく、宮内庁による陵墓の治定です)。→ 「天武・持統天皇陵古墳の見どころ」へ。
  • 中尾山古墳(なかおやまこふん):八角形で火葬をともなう古墳。有力説では、文武天皇の陵とする見方があります(断定はしません)。→ 「中尾山古墳の見どころ」へ。

八角形の墓や火葬といった新しいあり方は、天皇の墓が豪族の墓とは区別される、新しい王権の墓制へ向かっていったことを示すと考えられています。ただし、「墓が小さくなった=そのまま中央集権化」という単純な図式では説明しません。墓の形・規模・葬り方の変化は、いくつもの要素が重なった結果です。

キトラ古墳・高松塚古墳――壁画が示す東アジア文化

  • キトラ古墳:四神(しじん)や天文図などの壁画をもつ古墳。壁画は国宝に指定されています。→ 「キトラ古墳の見どころ」へ。
  • 高松塚古墳(たかまつづかこふん):女子群像(じょしぐんぞう)や四神などの壁画をもつ古墳。壁画は国宝に指定されています。→ 「高松塚古墳の見どころ」へ。

これらの壁画は、当時の日本が、大陸や朝鮮半島と深くつながり、東アジアの世界の中で国づくりを進めていたことを、目に見える形で伝えています。

みこ

古墳は「誰の墓か」だけでなく、形・規模・石室・葬り方にも注目してみてください。石舞台の巨大石室、八角墳、火葬、壁画と見比べると、王権と墓制の変化がつかみやすくなります。

飛鳥から藤原京へ|「宮がある場所」から計画された「都」へ

飛鳥の宮都と藤原京の形成・発展と集約・制度化の違いを比較した図

19構成資産の物語は、飛鳥から藤原京への移り変わりで、一つの頂点を迎えます。ここが、この記事のいちばん大切なところです。

初めての方向けに、大づかみに言うと――

「宮が育つ」飛鳥から、「都をつくる」藤原へ。

ただし、これはあくまで理解の手がかりです。実際の飛鳥の宮都の形成も、長い時間をかけた複雑な過程でした。次の3つの見方で整理します。

みこ

「宮が育つ飛鳥」「都をつくる藤原」は、違いをつかむための大づかみな見方です。飛鳥の宮都形成も、実際には長い時間をかけた複雑な過程でした。

飛鳥では宮の周囲に機能が育つ

飛鳥では、天皇の宮を中心に、政治の場、儀礼の場、水や時間を管理する施設、寺院などが、いわば周囲に少しずつ育っていくかたちで整えられました。前の章までで見てきた宮跡・苑池・水落・酒船石・寺院・古墳は、その積み重ねの証拠です。

藤原では都そのものを計画する

これに対して藤原京は、はじめから「都」として計画的につくられたという点が大きく異なります。発掘・研究では、藤原京は道路で碁盤の目のように区画され(条坊=じょうぼう)、宮(藤原宮)を中心に据えた、計画的な都市であったことが分かっています。持統天皇8年(694年)に飛鳥から藤原京へ都が移されたと伝えられます。

藤原宮跡・大官大寺・本薬師寺から都づくりを見る

  • 藤原宮跡:藤原京の中心となった宮殿・官衙の跡(特別史跡)。大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)に囲まれた平地に営まれました。→ 「藤原宮跡の見どころ」へ。
  • 大官大寺・本薬師寺:藤原京に計画的に配置された国家寺院。都のつくりの中に、国家の寺が組み込まれていたことを示します(上記H2-4の各リンク参照)。

「宮の周囲に機能が育つ」飛鳥から、「都そのものを計画する」藤原へ。この変化は、共通のきまり(律令)にもとづいて国を運営する、中央集権的な国家のかたちに対応したものと考えられています。飛鳥・藤原の宮都が、律令国家「日本」へ向かう決定的な転換期の一つだといえるのは、この移り変わりがあるからです。

藤原宮跡に立つ朱塗りの復元列柱
朱塗りの復元列柱は、藤原宮跡で政治中枢の位置を確かめる手がかりになります。

飛鳥・藤原の宮都|19構成資産一覧

19件を公式の番号順に並べます。各遺跡が「この記事の流れのどこを示すのか」を一言で添え、詳しくは個別記事へつなぎます。

19の構成資産が、飛鳥・藤原のどこに位置しているのかを全体MAPで確認できます。番号は、世界遺産の構成資産01〜19に対応しています。

飛鳥・藤原の宮都19構成資産の位置を示した全体マップ

MAPをクリック/タップすると、大きな画像で確認できます。

地図:© OpenStreetMap contributors OpenStreetMapの著作権・ライセンス

飛鳥・藤原の宮都を構成する19遺跡を3分類と公式番号で整理した索引図
構成資産(公式番号・名称/分類)この遺跡から何が分かる?(記事内での役割)
01 飛鳥宮跡(宮殿・官衙跡)政治の中心。宮が一か所に定着していく動き。
02 飛鳥京跡苑池(宮殿・官衙跡)宮廷の空間と儀礼(苑池)。
03 飛鳥水落遺跡(宮殿・官衙跡)「時」を管理する技術(漏刻=水時計)。
04 酒船石遺跡(宮殿・官衙跡)水と石造物から儀礼を考える(用途は断定しない)。
05 飛鳥寺跡(仏教寺院跡)新しい宗教と文化の入口(初期の本格的寺院)。
06 橘寺跡(仏教寺院跡)寺院文化の広がり(聖徳太子ゆかりの伝承)。
07 山田寺跡(仏教寺院跡)寺院文化の広がり(回廊部材は飛鳥資料館で展示)。
08 川原寺跡(仏教寺院跡)飛鳥の主要寺院の一つ(現・弘福寺)。
09 檜隈寺跡(仏教寺院跡)渡来系氏族と関わる寺院(現・於美阿志神社境内)。
10 石舞台古墳(墳墓)豪族の時代を考える(巨大石室。蘇我馬子墓説)。
11 菖蒲池古墳(墳墓)豪族の墓(家形石棺2基。被葬者は諸説)。
12 牽牛子塚古墳(墳墓)八角墳という新しい墓の形(斉明天皇陵説)。
13 藤原宮跡(宮殿・官衙跡)計画された都・藤原京の中心。
14 大官大寺跡(仏教寺院跡)国家を支える寺院(藤原京の国家寺院)。
15 本薬師寺跡(仏教寺院跡)国家を支える寺院(藤原京に営まれた薬師寺の跡)。
16 天武・持統天皇陵古墳(墳墓)王陵の変化(宮内庁治定「檜隈大内陵」)。
17 中尾山古墳(墳墓)王陵の変化(八角墳・火葬。文武天皇陵説)。
18 キトラ古墳(墳墓)壁画が示す東アジア文化(四神・天文図。壁画は国宝)。
19 高松塚古墳(墳墓)壁画が示す東アジア文化(女子群像・四神。壁画は国宝)。
みこ

19件を全部一度に巡る必要はありません。まず「宮殿・官衙跡」「仏教寺院跡」「墳墓」のどれに興味があるかを選び、気になる遺跡から個別記事へ進むと理解しやすくなります。

なぜ、この19件で一つの世界遺産なのか

ここまで見てきた流れをふまえて、この記事の最大の問いに答えます。

宮殿だけでは国家形成の全体像は分からない

もし宮殿の跡だけを見ていたら、政治の中心が動いたことは分かっても、その社会で何が変わっていったのかは見えにくいままです。国のかたちが変わるということは、政治の仕組みだけでなく、人々の信仰、亡くなった人の葬り方、時間や水の管理、儀礼、そして都市そのもののつくり方まで、あわせて変わっていくことだからです。

寺院・墓・水・時間も国づくりの証拠

だからこそ、飛鳥・藤原の宮都は、宮殿・官衙跡だけでなく、仏教寺院跡(信仰と文化の受容から国家寺院へ)と、墳墓(豪族の墓から新しい王権の墓制へ)を、あわせて構成資産としています。時間を管理する水落遺跡、儀礼にかかわる苑池や石造物までを含むのは、国家形成をさまざまな角度から伝えるためです。

19件をつなぐと「変化の過程」が見える

世界遺産に登録されたのは、19の有名な史跡を集めたからではありません。 飛鳥以前に形成・発展していた王権を土台に、飛鳥で政治・行政の中央集権化が進み、藤原で統治の制度と計画的な宮都が一体化して、律令国家へと再編されていく――政治・宗教・技術・儀礼・墓制・都市計画がたがいに関わり合いながら変化した、その過程を、19の遺跡が互いに補い合って伝えているからです。これは、世界遺産登録に用いられた基準(ii)(iii)の評価とも重なります。

一つひとつを点で見るより、時代の流れという線でつなぐと、「日本」という国家が形になっていく過程が浮かび上がってきます。それが、19件で一つの世界遺産である理由です。

みこ

19件の価値は、同じ種類の遺跡が集まっていることではありません。宮殿・寺院・墓・水・時間・儀礼・都づくりをつなぐことで、「国の仕組みそのものが変わっていった過程」を立体的に見られることにあります。

飛鳥・藤原の宮都の19構成資産に関するよくある質問

よくある質問は、19構成資産の数、登録時期、飛鳥と藤原の違いなど、初めて調べるときにつまずきやすい点を整理しています。

飛鳥・藤原の宮都の構成資産はいくつありますか?

19件です。公式には「宮殿・官衙跡」5件、「仏教寺院跡」7件、「墳墓」7件の3つに分類されています。奈良盆地南部の明日香村・橿原市・桜井市にまたがって点在しています。

19件で一つの世界遺産なのですか?

はい。19件は、一つひとつが独立して評価されたのではなく、つながりとして評価されています。政治・宗教・墓制・儀礼・技術・都市計画の変化が、たがいに補い合って、中央集権的な古代国家へ向かう過程を伝えている――その点が、世界遺産の登録基準(ii)(iii)にあたるものとして評価されました。

飛鳥・藤原の宮都はいつ世界遺産に登録されましたか?

2026年7月26日、第48回世界遺産委員会で世界遺産一覧表への記載が決まり、世界遺産に登録されました。英語名は「Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara」です。

なぜ寺院や古墳も「宮都」に含まれるのですか?

「宮都」は、宮殿だけを指すのではなく、その時代の国のかたちを伝えるまとまりだからです。国家の成り立ちは、政治の仕組みだけでなく、信仰(寺院)、葬り方(古墳)、水や時間の管理、儀礼などが一体となって変化していきます。寺院や古墳も、その変化を示す大切な証拠として構成資産に含まれています。

「倭」と「日本」は同じ国ですか?

つながってはいますが、そのまま同じ、とは言えません。中国の史書が「倭」と呼んだ世界は、はじめ百余国に分かれていたと記され、やがて倭王を頂点とする倭国としてまとまり、ヤマト王権が形成・発展していきます。5世紀には倭の五王が中国と外交を行いました。その王権が、飛鳥・藤原の時代に政治や法の仕組みを整え、律令にもとづく国家「日本」へと再編されていきます。「倭」から「日本」への変化は、一度に起きた出来事ではなく、何世紀にもわたる長い過程でした。

「日本」という国号はいつから使われたのですか?

「何年に成立した」と一つの日付で断定することはできません。史料・研究では、7世紀後半から8世紀初めにかけて、対外的にも「日本」という国号が用いられるようになっていったと考えられています。飛鳥・藤原の宮都は、その「日本」という国家のかたちが整えられていく時代にあたります。

聖徳太子と19構成資産にはどのような関係がありますか?

史料では、『日本書紀』に十七条憲法(第一条「和を以て貴しとなす」)が伝えられ、また橘寺跡には聖徳太子ゆかりの伝承があります。ただし、これらは史料に書かれていることや伝承であり、聖徳太子が一人で国家を完成させた、という意味ではありません。史料に書かれていることと、そこから読み取れることは、分けて理解するのがおすすめです。

飛鳥と藤原では何が違うのですか?

大づかみには、飛鳥は「宮を中心に、政治や儀礼などの機能が周囲に育っていった」宮都藤原は「はじめから都として計画的につくられた(条坊で区画された)」宮都という違いがあります。飛鳥から藤原京への移り変わりは、中央集権的な国家のかたちに対応した、都づくりの大きな変化を示しています。

19構成資産はすべて巡った方がよいですか?

すべてを一度に巡る必要はありません。見学のかたちは資産ごとに異なり(屋外史跡、有料の施設、拝所からの参拝、予約制で公開される壁画など)、公開条件が公式に明記されていない資産もあります。まずは関心のある分類(宮殿・官衙跡/仏教寺院跡/墳墓)や、訪れたい地域(飛鳥地域/藤原地域)から選ぶのがおすすめです。各遺跡の詳しい見学情報は個別記事で、実際の巡り方はモデルコース記事で確認してください。

まとめ|19の遺跡をつなぐと、「日本」が形になる過程が見えてくる

かつて、中国の史書が「倭人」と呼んだ人々の社会は、「百余国」もの小さなまとまりに分かれていたと記されていました。やがて倭王を頂点とする広域的なまとまりが生まれ、ヤマト王権が形成・発展し、5世紀には倭の五王が東アジア外交の舞台に立ちます。そこから律令国家「日本」へ――ただし、それは一足飛びの出来事ではなく、何百年もかけた長い形成過程でした。

その長い流れの中で、飛鳥・藤原の宮都の時代は、中央集権的な古代国家へ向かう決定的な転換期の一つでした。政治の中心が一か所に定着し(宮跡)、時間を管理する仕組みが導入され(水落)、水を用いた庭園や儀礼空間が整えられ(苑池・酒船石)、新しい信仰と文化が受け入れられ、やがて国家の寺院が整えられ(寺院跡)、豪族の墓から新しい王権の墓制へと変わり(古墳)、ついには計画的な都・藤原京がつくられました。

19の遺跡は、そのどれか一つでは語りきれない「変化の過程」を、たがいに補い合って伝えています。だからこそ、19件で一つの世界遺産なのです。一つひとつを点で見るより、時代の流れという線でつないで眺めると、「日本」という国が形になっていく姿が見えてきます。

次に読むと、さらに理解が深まります。

  • 各構成資産を詳しく知る:上の「19構成資産一覧」で気になる資産名を選ぶと、個別記事へ進めます。
おもな出典・確認先
  • 世界遺産登録の決定:世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会(2026年7月26日「世界遺産一覧表への記載が決定」)/文化庁/UNESCO世界遺産センター(第48回世界遺産委員会)
  • 構成資産(名称・所在・分類・指定・年代):登録推進協議会「構成資産」/文化庁・文化遺産オンライン/各自治体・宮内庁・国営飛鳥歴史公園
  • 史料:『漢書』地理志(倭人「百余国」)/『日本書紀』(十七条憲法・漏刻ほか)=いずれも史料としての記述であり、現代の確定事実として扱わない
  • 世界遺産の英語名:Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara

編集・取材情報

この記事は、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」を構成する19の資産について、公的機関・文化財関連機関が公開する資料や情報を確認し、現地での確認・撮影内容も踏まえて編集しています。

掲載している現地写真は、特記がない限り当サイトによる現地撮影です。

各構成資産の名称、位置づけ、公開状況等については、公式情報や文化財関連資料をもとに確認しています。公開状況、見学条件、交通情報等は変更される場合があるため、訪問前には自治体・施設等の公式情報もあわせてご確認ください。

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