世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」と東アジア交流|海を越えた人・文化・知識と古代日本の国づくり

世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」と東アジア交流をテーマにした記事アイキャッチ

世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」を歩くと、いま目に入るのは田畑や丘陵、そのなかに残る遺跡です。けれど約1400年前、この地には東アジアから人と知識が集まり、それを受け入れながら文化や社会のかたちが大きく変わっていきました。

海を越えた交流は、飛鳥・藤原をどう変えたのでしょうか。その痕跡を、いま残る遺跡からたどってみます。

水田と農道の先に甘樫丘を望む飛鳥の田園風景
水田と農道の向こうに甘樫丘を望む、現在の飛鳥の田園風景。

目次

飛鳥が世界とつながったのは、本当に7世紀からなのか?

飛鳥が世界とつながった時期を問いかける章タイトル画像

遣隋使、遣唐使。飛鳥時代と「世界」を並べたとき、多くの人がまず思い浮かべるのは、海を渡っていく使節の船ではないでしょうか。教科書でも大きく扱われ、この時代を代表する出来事として記憶されています。

ただ、そこにはひとつ、確かめておきたいことがあります。その船が出るまで、日本列島は外の世界から切り離されていたのでしょうか。

発掘調査の成果をたどると、答えはそれほど単純ではありません。人と物が長い距離を動いた跡は、飛鳥よりはるか以前の時代から見つかっています。日本列島がある日とつぜん外へ向かって開かれた、という話ではないのです。

では、飛鳥の時代に何が変わったのか。変わったのは、つながっていたかどうかではなく、つながり方の中身のほうでした。誰が、何を、どのような関係のなかで運ぶのか。そこが6世紀から7世紀にかけて入れ替わっていきます。

そして、外との関係が深まれば、変わるのは海の上のことだけではありません。相手を迎え、学び、持ち帰ったものを実際に使おうとすれば、迎える側の社会にも、それに見合った仕組みが必要になります。飛鳥・藤原で起きたのは、そこまで含めた変化でした。

この記事では、その変化を順に追いかけていきます。海の向こうから届いたものを、この地の人々はただ受け取っただけだったのか。最後には、その問いにも戻ってきます。


そのずっと前から、人と物は日本列島を動いていた

先史時代から人と物が日本列島を移動していたことを示す章タイトル画像

日本列島で人と物が遠くまで動いていた証拠は、驚くほど古い時代から見つかっています。しかもそれは推測ではなく、出土品の産地分析という形で残っています。

産地から遠く離れた場所で見つかる石と玉

代表的なのが黒曜石(こくようせき)です。割ると鋭い刃になる火山ガラスで、石器の材料として重宝されました。産地が限られているため、出土した石がどこから来たものなのかを、科学的な分析でかなり絞り込むことができます。

伊豆諸島の神津島(こうづしま)は、本州から数十キロ離れた島です。にもかかわらず、神津島産と分析された黒曜石が、本州側の後期旧石器時代の遺跡から出土しています。島と本州のあいだで海を渡る航海が行われ、その石が本州側へ運ばれていた、ということになります。

陸の上でも、同じようなことが起きていました。青森市の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、その土地では採れない品々がまとまって出土しています。新潟県産とされるヒスイ、北海道産や長野県産などの黒曜石、岩手県久慈(くじ)産の琥珀(こはく)、日本海側の地域から持ち込まれたと考えられるアスファルト。なかには、500キロほど離れた土地に由来するものも含まれます。

7,500年前の丸木舟

運ぶ手段そのものも残っています。千葉県市川市の雷下遺跡(かみなりしたいせき)では、およそ7,500年前の丸木舟が出土しました。ムクノキをくりぬいた、全長7メートルほどの舟で、国内で最も古い部類の丸木舟とされています。

石斧で削り、木を焦がしながらくりぬいていった跡が、船体にそのまま残っています。海は人々を隔てる壁であると同時に、そこを越えていくための道でもありました。

みこ

そう考えると、昔の人々は、現在の私たちが想像する以上にずっとダイナミックに動いていたように感じられませんか。

先史時代の広域交流と6〜8世紀の東アジア交流を、一本の線でつながずに並べた対比図

もちろん、ここまで見てきた人や物の動きが、そのまま飛鳥時代まで一本につながっているわけではありません。考古資料から分かるのは、石材や樹脂といった資源や製品が長い距離を動いていたことであって、後世のような国どうしの外交や、制度をともなう関係とは性格が違います。

ここで確かめられたのは、飛鳥より前の日本列島もまた、決して閉ざされた空間ではなかったということです。6世紀から7世紀に起きた変化は、その延長線としてではなく、別の話として見ていくことになります。


6〜7世紀、東アジアとの「つながり方」が変わった

6〜7世紀に東アジアとのつながり方が変化したことを示す章タイトル画像

6世紀から7世紀にかけて、日本列島の王権は、中国大陸の王朝や朝鮮半島の国々との関係のただなかにありました。この時期に大きく変わったのは、人が動くようになったこと自体ではありません。前の章で見たとおり、人が海を渡ること自体は、ずっと古くから行われてきました。

対外的な使節の往来も、6世紀に始まったわけではありません。5世紀には、中国の史書に「倭の五王(わのごおう)」と呼ばれる王たちの遣使が記録されています。

変わったのは、その移動が何と結びついたのか、というところでした。使節や僧、学生(がくしょう)や学問僧(がくもんそう)、技術者が国どうしの関係のなかを行き来し、その人々とともに、宗教や専門的な知識、やがては制度までが動くようになります。

この違いは、思いのほか大きなものです。物だけであれば、運ぶ人が入れ替わっても、手から手へ渡っていけば届きます。けれども知識や制度はそうはいきません。それを身につけた人が長く学び、国どうしの関係のなかを往復してはじめて、まとまった形で伝わっていきます。

中国大陸・朝鮮半島・倭のあいだを人・宗教・技術・知識が行き来したことを示す概念図

史料に残る、隋への使い

その動きが記録の上でどう見えるのかを、年代に沿ってたどってみます。ただし、ここは史料の扱いに注意が必要な場所でもあります。

600年、中国の史書『隋書(ずいしょ)』に、倭からの使いが隋へ来たことが記されています。一方の『日本書紀』には、これに対応する記事が見あたりません。

607年には、『日本書紀』に小野妹子(おののいもこ)が隋へ派遣されたことが記されています。有名な「日出処天子(ひいづるところのてんし)……」で始まる国書の記事があるのは、『日本書紀』ではなく『隋書』のほうです。この二つは別々の史料であり、同じ出来事をめぐってそれぞれの立場から書かれた、別の記録として読む必要があります。

608年に渡った一行には、『日本書紀』によれば学生や学問僧が加わっていました。彼らの多くは、そのまま大陸にとどまって学びます。そして630年以降は、相手が唐に変わり、遣唐使が繰り返し派遣されていくことになります。

史料を、混ぜずに読む
  • 隋書』と『日本書紀』は、別々の史料として読みます。同じ出来事でも、書いている立場が違います。
  • 海を渡ったのは使節だけではありません。学生(がくしょう)・学問僧も加わり、長い年月を大陸で過ごしました。
みこ

遣隋使を「国際交流の始まり」と見るより、それまでの交流が、外交・人材・知識・制度まで動く交流へ変わっていった時代と見ると、飛鳥の変化がずっと分かりやすくなります。

使節を送るということ

使節を送る目的は、外国の進んだ文物を持ち帰ることだけではありませんでした。

海の向こうの国と、どのような関係を結ぶのか。何を学び、何を持ち帰り、それを自分たちの社会にどう生かすのか。使節を送るたびに、そうした判断も必要になります。

もちろん、当時の東アジアは、現在の国際社会とはまったく違います。中国王朝を中心とした国際関係のなかで、飛鳥の側が何でも自由に決められたわけではありません。

それでも、使節の往来を重ねるなかで、ただ「外国から学ぶ」だけではなく、相手との関係を考えながら、自分たちに必要なものを選び取っていく外交へと変わっていったように見えます。

人を送ることは、海の向こうを見ることであると同時に、自分たちの国をどうしていくのかを考えることでもあったのでしょう。

迎える側にも、新しい仕組みが必要になった

交流が深まれば、人を送り出すだけではありません。海の向こうから、使節やさまざまな人々が飛鳥を訪れるようになります。

608年に大陸へ渡った学生や学問僧のなかには、十年、二十年という長い年月をかけて学び、やがて帰国した人々もいました。彼らが持ち帰ったのは、珍しい品物というより、政治や法律の考え方、暦の知識、仏教の教学など、社会のなかで実際に使うことのできる知識でした。

一方、海外から人が訪れるようになれば、迎える飛鳥の側にも変化が求められます。

どこで会うのか。どのように迎えるのか。どんな儀礼や宴を行うのか。

飛鳥寺の北西にある石神遺跡からは、水を噴き上げる仕掛けをもつ須弥山石や石人像などの石造物が見つかっています。この一帯は、使節や各地から訪れた人々を迎え、もてなす場所だったと考えられています。

こうして見ると、交流によって変わったのは、海を渡る人々だけではありません。

人を送り、学び、人を迎える。その経験を重ねるなかで、飛鳥の側にも、外交を続けるための場所や作法、仕組みが少しずつ整えられていった。

外交が国のかたちをつくった、と単純に言い切ることはできません。それでも、外との関係が深まるにつれて、迎える側の社会もまた変わっていったことは、石神遺跡のような場所から感じ取ることができます。


海を渡ってきたのは、仏像や品物だけではなかった

海を渡って人・技術・知識が飛鳥へ伝わったことを示す章タイトル画像

現在の飛鳥を歩いていると、目に入るのは田畑や丘陵、そのなかに点在する寺や遺跡です。けれども約1400年前、この土地には東アジアから人が渡り、新しい知識や技術が持ち込まれていました。

『日本書紀』には、588年に飛鳥寺の造営が始まったことが記されています。その際、百済から渡ってきたのは僧だけではありません。寺を建てる工人、瓦をつくる技術者、塔の金属部分を手がける専門家、画工など、寺院造営を支えるさまざまな技術者が含まれていました。

ここで注目したいのは、海を渡ったのが完成した「物」だけではなかったことです。

瓦の焼き方や木材の組み方、金属加工や彩色の技法は、品物のように船へ積んで運べるものではありません。技術を身につけた人が現地へ渡り、実際の仕事を通して伝えていく必要があります。

飛鳥寺の造営現場では、海の向こうから来た人々と、この土地で暮らす人々が、ともに寺づくりに携わったのでしょう。そこでは建物がつくられると同時に、知識や技術そのものが人から人へ渡っていったと考えることができます。

飛鳥に入ってきたのは、仏像や経典といった目に見えるものだけではありませんでした。

それをつくる技術、それを使う知識、そして、それを伝える人までが海を越えてきた。

みこ

寺を一つ建てるだけでも、建築、瓦、金属加工、彩色など、さまざまな技術が必要です。仏教を受け入れることは、そうした技術や、それを伝える人まで受け入れることでもあったんですね。

飛鳥が東アジアとつながった意味を考えるなら、まずそこから見ていく必要があります。


海の向こうから届いた文化は、飛鳥でどう変わったのか

東アジアから届いた文化が飛鳥で新しい形へ変わったことを示す章タイトル画像

百済から僧や職人が渡ってきたという記録を読むと、飛鳥寺にも百済の文化や技術が色濃く表れているように思えます。

ところが、発掘された寺の姿を見ると、それだけでは説明できないことが分かってきました。

西門側から望む飛鳥寺の堂宇と周辺の水田・山並み
飛鳥寺周辺を西門側から望む。堂宇の向こうに飛鳥の山並みが広がる。

中央に塔を立て、その北・東・西の三方を金堂(こんどう=仏像を安置する建物)が囲む。塔ひとつを三つの堂が取り囲むこの配置には、朝鮮半島北部にあった高句麗(こうくり)の寺院との類似が指摘されています。一方で、細部には百済の寺院と共通する要素も見つかっています。

百済から人が来たという史料の記録と、地面から現れた寺の姿。その二つを重ねると、飛鳥寺は、一つの国の文化だけでは説明がつきません。

飛鳥寺は、どこか一つの寺をそのまま写したものではありません。東アジアから届いたさまざまな知識や技術が、この地で組み合わされながら、一つの寺として形になっていった。そう捉えるほうが、発掘された姿にはよく合います。

そして、これは飛鳥寺だけの事情ではありません。その後の寺院や古墳を見ても、同じ文化圏の影響を受けながら、選ばれた形は一様ではないのです。

届いたものを、そのまま据えたのではない。選ばれ、組み替えられ、この土地の建物として立ち上がっていく。飛鳥は、文化の「受入口」であるだけでなく、いわば「編集の現場」でもありました。

東アジアから届いた文化・知識を、受け取る・選ぶ・組み替える・定着していく流れとして示した理解図
みこ

「どの国の文化だったのか」を一つに決めるより、いくつもの文化や技術が飛鳥でどう組み合わされたのかを見る。そう考えると、飛鳥寺の面白さがぐっと見えやすくなります。

飛鳥寺跡の足もとに眠っているのは、外国の寺の写しではありません。東アジアの各地から届いた知識が、この土地で一つの形にまとまった跡です。


藤原京で「世界から学んだもの」が国の仕組みになる

世界から学んだ知識や制度が藤原京で国の仕組みへ広がることを示す章タイトル画像

飛鳥では、宮も寺も、丘と谷のあいだに収まっています。そこから少し北へ出ると、視界が急に開けます。藤原宮跡は、さえぎるもののない平地の中央にあり、大和三山を一望できます。

694年、都はここへ移されたと伝えられます。宮殿を建てただけではありません。碁盤の目のように道路で区切られた大きな都市そのものが、地形に合わせてではなく、あらかじめ計画されて置かれていました。必要に応じて建て替えられ、移り、また戻ってきた飛鳥の宮とは、成り立ちが違います。

藤原宮跡の復元列柱と広い芝地、背後の山並み
藤原宮跡の復元列柱。広い宮跡の空間から、かつての宮都のスケールを想像できる。

そして701年大宝律令が完成します。国を動かすための法律と行政の仕組みが、大きく整えられました。この前後には、「日本」という国の名も、対外的にはっきりと姿を現していきます。翌702年に派遣された遣唐使は、「日本」の国号を対外的に用いた最初の事例とされています。

この時代には、君主の呼び名にも変化の痕跡が残っています。飛鳥池遺跡からは、「天皇」と読める文字を記した7世紀後半の木簡が出土しています。奈良文化財研究所は、これが君主の称号として使われた「天皇」であれば、木簡の年代から天武天皇を指す可能性があるとしています。

ただし、この文字が君主号とは別の意味で使われた可能性もあり、「天皇」という称号がいつ成立したのかを、この木簡だけで決めることはできません。それでも、現在の「日本」「天皇」へとつながる国の輪郭が、この時代に次第にはっきりしていくことを考えるうえで、興味深い資料です。

みこ

「藤原京」「大宝律令」「日本」「天皇」。別々の言葉に見えますが、この時代には、都・制度・国の呼び名など、国の輪郭が少しずつはっきりしていきます。一度に完成したのではなく、長い変化が重なって見えてくるところが大切です。

大きな話が続きますが、その変化は、意外なほど小さなものにも残っています。

藤原宮跡からは、木簡(もっかん)と呼ばれる木の札が大量に出土しています。多くは、地方から届いた荷物に付けられていた名札でした。産地の地名、品物の名、数量。米や海産物が各地から運ばれ、一つずつ文字で確かめられていたことが分かります。

その札を見ていくと、ある時期を境に書き方が変わります。地方の役所の単位を示す文字が、「評(こおり)」から「郡(こおり)」へ移るのです。都で定められた新しい仕組みが、荷札に筆を走らせる人の手もとにまで届いていた。国のかたちが改まった痕跡が、こんな小さな木の札にも刻まれています。

この都も、法も、国の名も、ある日いっせいに用意されたものではありませんでした。飛鳥で海の向こうへ人を送り、人を迎え、学び、試し、自分たちなりの形へ組み替える。それを何世代も重ねた先で、都のかたちや、法律と行政の仕組み、そして「日本」という国の姿が、次第にはっきりしてきます。

いま藤原宮跡にあるのは、広い草地と、復元された柱だけです。けれどもここは、世界と関わりながら、この列島が自分たちなりの国の形をつくっていった時代の、ちょうど真ん中にあたる場所でした。そう知って立つと、その広さの意味が変わってきます。


「シルクロードの終着点・奈良」の物語は、どこから始まったのか

奈良の国際文化とその前章となる飛鳥・藤原を描いた章タイトル画像

飛鳥・藤原を歩いたあと、少し足をのばして奈良へ向かうと、まったく別の時代の顔に出会います。正倉院(しょうそういん)に伝わる宝物です。ガラスの器、五絃の琵琶、色鮮やかな染織品。8世紀の日本に、これほど国際色ゆたかな品々が集まっていたのかと驚かされます。

正倉院は、しばしば「シルクロードの終着点」と表現されます。ただし、その意味は少し丁寧に見ておく必要があります。

シルクロードは、中国から日本まで続く一本の道の名前ではありません。ユーラシア各地を結んだ、いくつもの陸路や海路からなる交流のネットワークです。そこでは品物だけでなく、人が行き来し、宗教や技術、知識、文化も地域から地域へと伝わっていきました。

正倉院に伝わる宝物も、その広い交流の世界を感じさせます。大陸から運ばれてきた品だけでなく、日本でつくられた品のなかにも、中国やインド、イラン、さらにその西方へつながる文化的な要素が見られます。宮内庁正倉院によれば、そうした西方の要素は盛唐の文化に取り入れられたのち、日本へ伝わったものもあります。

では、なぜ正倉院は「シルクロードの終着点」と呼ばれるのでしょうか。

これは、奈良が一本の交易路の物理的な終点だった、という意味ではありません。宮内庁正倉院も、この言葉を、正倉院宝物が持つ世界性の一端を表したものと説明しています。

遠く離れた地域で生まれた文化が、いくつもの土地と人を経て形を変えながら東へ伝わり、その痕跡が8世紀の奈良に残されている。「シルクロードの終着点」という言葉は、そんな正倉院の国際性を象徴する表現として理解するのがよさそうです。

みこ

「シルクロードの終着点」として有名なのは奈良・正倉院です。飛鳥・藤原がそう呼ばれて世界遺産になったわけではありません。

では、その一つ前の時代は、どうだったのでしょうか。

飛鳥・藤原に、遠い西アジアの品が直接運ばれてきた形跡はありません。この地がシルクロードの終着点だったわけでもありません。

ただ、奈良の国際文化を、それ以前の飛鳥・藤原と切り離して見ることもできません。

飛鳥・藤原では、人を送り、人を迎え、外から学んだ知識や技術を、この土地の社会に合う形へ組み替えていく経験が積み重ねられていました。藤原京の時代には、それが都や法律、行政の仕組みにまで広がっていきます。

奈良で花開いた世界との交流の物語には、その前に、飛鳥・藤原という重要な前章があったのです。

飛鳥から藤原、そして平城へと宮都と制度のかたちが変わっていった流れを示す年表図

正倉院の宝物を見にいく前に、あるいは見たあとに、藤原宮跡の草地を歩いてみる。順番を入れ替えるだけで、どちらの見え方も少し変わってきます。


飛鳥・藤原を歩くと、「世界とのつながり」はどこに見えるのか

世界とつながる飛鳥・藤原についてのFAQ章タイトル画像

飛鳥・藤原の遺跡の多くは、見上げる建物として残っていません。目の前にあるのは、草地と、礎石と、ゆるやかな地形です。それだけに、何を探しに行くかを決めておくと、同じ風景がまるで違って見えてきます。ここまで読んだ人には、その手がかりが三つあります。

飛鳥寺のあたりで、文化が交わった痕跡をたどる

飛鳥寺跡は、海の向こうから届いた文化が、この地でどのように形を変えたのかをたどるうえで、まず訪れたい場所です。いま歩けるのは静かな境内と周囲の田畑ですが、その足もとには、塔を三つの堂が囲んでいた寺の跡が広がっています。どこか一国の写しではなく、いくつもの土地の知識がここで一つの形になった。そう思って地面を見ると、何もないはずの風景が急に濃くなります。

続けて川原寺跡まで足をのばすと、違いが分かります。同じ時代、同じ土地でありながら、飛鳥寺とは配置が違う。選ばれた形が一つではなかったことが、礎石の並びから伝わってきます。

壁画で知られる高松塚古墳キトラ古墳も、同じ見方で歩ける場所です。同じ東アジア文化の影響を受けながら、二つの古墳に描かれた題材は同じではありません。壁画の公開日程は時期によって変わるため、訪ねる前に公式情報をご確認ください。

人と知識が根づいた飛鳥をたどる

海の向こうから来た人々は、通り過ぎただけではありませんでした。明日香村の於美阿志神社(おみあしじんじゃ)の境内は、渡来系の人々と関わりの深い檜隈(ひのくま)に営まれた寺の跡です。人が住み、教え、次の世代へ渡していった土地だと思って立つと、静かな境内の見え方が変わります。

そこから近い飛鳥水落遺跡は、水を用いて時刻を測り、人に知らせるための施設の跡と考えられている場所です。同じ時刻を共有することは、儀礼や多くの人の動きを支えるうえでも重要でした。柱の跡が残るだけの一角ですが、そう考えると、ずいぶん密度のある場所に見えてきます。

すぐそばの石神遺跡から出土した須弥山石(しゅみせんせき)と石人像(せきじんぞう)は、飛鳥資料館で実物を見ることができます。海の向こうからの客をもてなす場に据えられていたとされる石造物です(石神遺跡そのものは、世界遺産の19の構成資産には含まれていません)。

藤原宮跡で、「国のかたち」が見えてくる

最後に、少し北へ。藤原宮跡は、飛鳥で人や文化が交わってきた足跡をたどったあとに訪れると、いちばん見え方の変わる場所かもしれません。広い草地と、復元された柱。大和三山を見渡せるこの空間に、碁盤の目の都と、そこで働いていた人々と、荷札に筆を走らせる手を重ねてみてください。

余裕があれば、大官大寺跡本薬師寺跡まで歩くと、寺が都市の計画のなかに置かれていく段階が見えてきます。飛鳥の寺院を歩いたあとに藤原京の寺院跡へ立つと、寺そのものの見え方も変わってきます。計画された都の広がりのなかに置かれた寺を、飛鳥とは少し違った視点で見ることができます。

みこ

「何を外国からもらったか」ではなく、「それをどう作り変えたか」を探しに行く。そう決めて歩くと、草地と礎石しかない風景が、急に情報の多い場所に変わります。

各遺跡の詳しい見どころは「飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧」から、世界遺産として評価された理由は「なぜ「飛鳥・藤原の宮都」は世界遺産なのか」からたどれます。

飛鳥・藤原を歩くのは、日本の古代をたどることであると同時に、東アジアとの関わりのなかで、この列島に新しい社会の形が生まれていった現場を見ることでもあります。


世界とつながる飛鳥・藤原についてよくある質問

飛鳥・藤原の遺跡を歩き世界とのつながりをたどる章タイトル画像

ここで、とくに誤解されやすいところを、8つにまとめておきます。

Q1.飛鳥が外国と交流し始めたのは7世紀からですか?

いいえ。人や物が遠くまで動いた跡は、それよりはるか昔から確認できます。6〜7世紀に変わったのは、交流が始まったかどうかではなく、そのつながり方です。人とともに知識や技術が動き、社会の仕組みにまで関わるようになりました。

Q2.先史時代の交流と遣隋使・遣唐使は、つながっているのですか?

一本の交易路として続いていたわけではありません。先史時代に確認できるのは、石や樹脂などが長い距離を動いていたことです。国どうしの外交や、人材と知識をともなう6〜7世紀の交流とは、性格の違う歴史として見る必要があります。

Q3.遣隋使と遣唐使は何が違いますか?

送り先の中国王朝が、隋か唐かという違いです。600年の隋への使いは『隋書』に記され、607年の小野妹子の派遣は『日本書紀』に記されています。近い時期の出来事ですが、記録している史料はそれぞれ別です。

Q4.飛鳥寺は、百済や高句麗の寺をそのまままねたものですか?

一つの国の写しとしては説明できません。百済から人が渡ってきたという記録がある一方、発掘された寺には高句麗の寺院との類似も、百済の寺院との共通点も見られます。複数の要素が、この地で一つの形になったと考えられています。

Q5.漢字は飛鳥時代に日本へ伝わったのですか?

いいえ。漢字を記した資料は、飛鳥時代より前の古墳からも出土しています。飛鳥・藤原の時代に起きたのは伝来そのものではなく、文字が記録や行政の仕組みのなかで広く使われるようになったことです。

Q6.藤原京は、唐の長安をまねた都ですか?

そのまま写した都ではありません。東アジアの都づくりを学びながら、この土地で新しい都の形がつくられていったと見るのがよいでしょう。

Q7.飛鳥はシルクロードの終着点だったのですか?

いいえ。シルクロードは一本の道路ではなく、複数の陸路や海路からなる交流のネットワークを指す言葉です。「終着点」は奈良・正倉院の宝物がもつ世界性を表す文脈で使われる表現で、飛鳥・藤原が世界遺産になった理由でもありません。

Q8.正倉院と飛鳥・藤原には、どんな関係がありますか?

一本の道で直接つながっているわけではありません。ただ、8世紀の奈良に国際的な文化が現れる前に、飛鳥・藤原では人を送り、迎え、外から得た知識や技術を社会へ取り込んでいく時代がありました。奈良の国際文化を考えるうえで、飛鳥・藤原は重要な「前章」といえるでしょう。


まとめ|世界との交流のなかで育まれた古代日本

世界との交流のなかで育まれた古代日本をまとめる章タイトル画像

最初に立てた問いは、「飛鳥が世界とつながったのは、本当に7世紀からなのか」でした。

人や物が遠くまで動く歴史は、それよりずっと古くからありました。6〜7世紀に変わったのは、つながっていたかどうかではなく、つながり方のほうです。人とともに技術や知識が渡り、外との関係が社会と深く結びつくようになりました。

では、飛鳥はそれをただ受け取っただけの場所だったのか。そうではありませんでした。届いたものはこの地で選ばれ、組み合わされ、飛鳥なりの形に変えられていきます。文化の受入口であるだけでなく、編集の現場でもあった。そう言えそうです。

その積み重ねの先に、藤原京の時代が来ます。都のかたち、法律と行政の仕組み、そして「日本」という国の姿が、少しずつはっきりしていきました。外との交流だけが古代の日本をつくったわけではありません。それでも、世界と関わりながら自分たちの形を探した時間が、この土地に流れていたことは確かです。

いま目に入るのは、草地や礎石、田畑と山並み。往時の建物が、そのまま立ち並んでいるわけではありません。けれど、その風景の下には、社会のかたちが変わっていった時代の痕跡が眠っています。

みこ

飛鳥・藤原の魅力は、「外国から何が来たか」だけではありません。届いたものをどう受け止め、選び、組み替え、自分たちの社会の形へ変えていったのか。その途中の姿が、いまも遺跡のなかに残っています。

どんな場所だったのかは、実際にその土地へ立ってみるのがいちばんです。次に奈良を旅するときは、少し南の飛鳥・藤原まで足をのばしてみてください。

おもな出典・確認先(2026年8月24日確認)
  • 先史時代の広域交流:文化庁/「北海道・北東北の縄文遺跡群」公式サイト(三内丸山遺跡の遠隔地由来資料)ほか
  • 丸木舟:千葉県/市川市の公表資料(雷下遺跡)
  • 飛鳥・藤原の発掘成果・木簡:奈良文化財研究所/明日香村
  • キトラ古墳壁画・天文図:文化庁/奈良文化財研究所
  • 正倉院・シルクロード:宮内庁正倉院
  • 古代外交の史料:『宋書』『隋書』『日本書紀』等=史料としての記述であり、現代の確定事実として扱わない
  • 世界遺産としての評価:ASUKA-032「なぜ『飛鳥・藤原の宮都』は世界遺産なのか」

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