海に面しているわけでもなく、大きな平野の真ん中でもない。奈良盆地の南部が、なぜ古代国家づくりの大きな舞台になったのでしょうか。
「飛鳥・藤原の宮都」は、2026年7月26日、第48回世界遺産委員会で世界遺産一覧表への記載が決まりました。橿原市(かしはらし)・桜井市(さくらいし)・明日香村(あすかむら)にまたがる一帯に残る、19件の遺跡で構成されています。
先に結論をお伝えします。飛鳥・藤原が都になった理由は、一つに絞れません。ただ、この一帯には、都が置かれるよりはるか前から、人が集まり、物が行き交い、政治の中心が生まれてきた歴史がありました。
都は、何もない場所に突然、現れたわけではありません。

- 奈良盆地南部が、どういう地形で、どこにつながっていた土地なのか
- 飛鳥に宮都が営まれる前から、この一帯に何が積み重なっていたのか
- 山にかこまれた飛鳥が、どのように外の世界と結ばれていたのか
- 飛鳥と藤原で、都のつくり方がどう変わったのか
- 「なぜ、ここだったのか」を、いまわかっている情報からどこまで考えられるのか
19の構成資産それぞれの特徴や、19件で一つの世界遺産を構成している理由は、別記事「飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧」で紹介しています。ここでは視点を変えて、なぜこの一帯に人や物が集まり、政治の中心が築かれていったのかを、土地の成り立ちや交通、交流の面から見ていきます。
みこ19の遺跡を一つずつ覚える必要はありません。この記事では、「なぜ、この土地だったのか」という問いだけ覚えておいてください。
結論|一つの理由ではなく、五つの条件が重なっていた


「交通が便利だったから」「地形が守りやすかったから」。飛鳥・藤原が都になった理由を、そうした一つの答えで片づけることはできません。そもそも、「なぜここを都に選んだのか」を直接記した史料が残っていないからです。
かわりに、いまわかっていることを重ねると、五つの条件が見えてきます。
この記事で見ていく5つの条件
① 長い蓄積|飛鳥以前から、奈良盆地の各地に人や物が集まる拠点があり、王権と結びつく土地も史料に現れていた
② 交通|内陸でありながら、難波・桜井・初瀬方面と結ばれていた
③ 交流|外から来る文化・宗教・制度・技術を受け入れる環境があった
④ 地形|丘陵の飛鳥と、広い平地の藤原が隣り合っていた
⑤ 王権との結びつき|飛鳥には複数の時期に宮が営まれ、難波や近江へ政治の中心が移った後も、再び飛鳥が選ばれた
どれか一つが決め手だったのではありません。複数の条件が重なっていたと考えるのが、現時点では無理のない見方です。
ここから、この五つを一つずつ見ていきます。
奈良盆地南部という土地|山にかこまれ、外へ開く


歴史に入る前に、まず土地そのものを見ておきます。ここを押さえると、このあとの話がぐっと追いやすくなります。
奈良盆地の南部という位置
飛鳥・藤原の宮都が広がるのは、奈良盆地の南部。現在の橿原市・桜井市・明日香村にまたがる一帯です。
奈良盆地は、周囲を山や丘陵にかこまれた、南北に長い盆地です。飛鳥・藤原はその南端に位置し、平地の先には山々が迫ります。
ただ、この「盆地の南端」という位置は、外から切り離された場所だったことを意味しません。
西へ向かえば二上山(にじょうざん)のふもとを越えて難波(なにわ)方面へ、東へ進めば桜井や初瀬(はせ)の谷筋へ。峠や川、古くからの道をたどることで、盆地の外へもつながっていました。
山にかこまれながら、外へ開かれている。
この性格を押さえることが、飛鳥・藤原を考える出発点になります。



地図で見ると、飛鳥は山の中の行き止まりに見えるかもしれません。でも当時の人にとって、峠も川も谷も、すべてが通り道でした。現代の道路地図とは少し違う目で見ると、飛鳥が外とどうつながっていたのかが見えやすくなります。
飛鳥|丘陵と谷と田畑の土地
飛鳥は、主に現在の明日香村のあたりを指します。低い丘陵がいくつも入り組み、その間を谷と小さな川が刻む地形です。
まとまった平地は限られ、いまも丘のかたちに沿って田畑と集落が広がっています。この土地で、広い区画をひとまとまりに設計するのは容易ではありません。
藤原|大和三山にかこまれた広い平地
藤原は、主に橿原市の藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)のあたりを指します。飛鳥の北西側に隣り合う地域です。
香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)という大和三山(やまとさんざん)にかこまれた、広く平らな土地が開けています。
飛鳥からは近いものの、土地のかたちは大きく異なります。ここには、道路で碁盤の目のように区画された都をつくる余地がありました。
| 場所 | 土地の性格 |
|---|---|
| 奈良盆地南部(全体) | 山地にかこまれた盆地の南端。内へも外へも道と川がのびる |
| 飛鳥(明日香村ほか) | 丘陵と谷が入り組み、まとまった平地は限られる |
| 藤原(橿原市ほか) | 大和三山にかこまれた広い平地。計画的な区画が可能 |
この記事では、丘陵と谷が入り組む明日香村周辺を「飛鳥」、大和三山にかこまれた橿原市の平地を「藤原」と呼び分けています。世界遺産の名称「飛鳥・藤原の宮都」は、この隣り合う二つの土地をまとめて指す言い方です。
山は、必ずしも壁ではない
山にかこまれていても、飛鳥は外と切り離されてはいませんでした。鍵になるのは、峠・川・谷筋です。
人は峠を越え、川をさかのぼり、谷筋をたどって移動します。山は道をさえぎる壁ではなく、道の通り方を決める地形でした。
奈良盆地南部は、まさにそうした峠と川と谷が集まる位置にあります。
ここまでのポイント
- 飛鳥・藤原は、奈良盆地の南端にある
- 飛鳥は丘陵と谷、藤原は大和三山にかこまれた平地。性格の違う土地が隣り合う
- 南端という位置は、行き止まりを意味しない。峠・川・谷が外へ通じていた
飛鳥より前から、人と物が集まる拠点はあった|唐古・鍵と纒向


飛鳥に宮都が営まれるのは、6世紀末以降です。ただし奈良盆地には、それよりずっと前から、人や物が集まる大きな拠点がありました。この章では、代表的な二つの遺跡を見ます。
まず、場所を押さえる
読み進める前に、位置関係を確認しておいてください。この記事に出てくる拠点は、奈良盆地の同じ場所にあったわけではありません。
- 唐古・鍵——奈良盆地のほぼ中央(田原本町)
- 纒向——奈良盆地の東南部(桜井市・三輪山西麓)
- 飛鳥——奈良盆地の南部(明日香村周辺)
- 藤原——飛鳥の北西側、奈良盆地南部の平地(橿原市)
唐古・鍵、纒向、飛鳥は、時代も場所も異なります。
ここで押さえておきたいのは、これらを一つの拠点が移動した歴史として見るのではなく、奈良盆地の異なる場所に、時代ごとに人や物が集まる拠点が現れていた、ということです。


唐古・鍵遺跡|弥生時代の大規模な拠点
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良盆地のほぼ中央、現在の田原本町(たわらもとちょう)にあります。弥生時代の大規模な環濠集落(かんごうしゅうらく。周囲に濠をめぐらせた集落)の跡です。
飛鳥・藤原からは北へ離れていて、のちに宮都が営まれる盆地南部とは別の場所にあたります。
発掘調査で確認されていることは、次のような点です。
- 長期間にわたって営まれた、大規模な環濠集落であること
- 青銅器の生産にかかわる遺物が出土していること
- 他地域から持ち込まれた土器など、広い範囲との交流を示す遺物が確認されていること
- 建物を描いた絵画土器など、当時の建築や技術を考える手がかりとなる資料が出土していること
よくある誤解
唐古・鍵遺跡を「武器が出ていない平和な集落」「誰のものでもない、みんなの土地」と紹介する説明もあります。しかし、この遺跡からは武器にかかわる遺物も出土しています。「争いの少ない土地だった」とする見方もありますが、出土品だけからそう断定することはできず、実際のところは分かっていません。


纒向遺跡|古墳時代初頭の広域的な拠点
纒向遺跡(まきむくいせき)は、桜井市の三輪山(みわやま)西麓に広がる、古墳時代初頭を中心とする大規模な遺跡です。
発掘調査では、大型の建物跡や、各地から持ち込まれた土器が多量に出土していることが確認されています。
研究上は、こうした特徴から、纒向は特定の地域だけの集落ではなく、広い範囲の人や物が集まる政治的な拠点だったと考えられており、初期のヤマト王権とのかかわりが指摘されています。


二つの遺跡から言えること
大切なのは、唐古・鍵と纒向を一本の線で結んでしまわないことです。両者は時代も場所も異なり、同じ勢力が直接受け継いだと断定できる根拠はありません。
飛鳥は、そうした歴史がまったくない土地に、突然現れたのではありませんでした。



唐古・鍵 → 纒向 → 飛鳥、と矢印でつなぎたくなりますが、同じ人たちが引っ越していったという話ではありません。時代も場所も違う、別々の拠点として見てください。
ここまでのポイント
- 唐古・鍵=弥生時代・盆地のほぼ中央。纒向=古墳時代初頭・盆地の東南部
- 二つを継承関係で結ぶ根拠はない
- 飛鳥より前から、奈良盆地には人や物が集まる拠点があった
飛鳥の近くに、史料に宮が現れる土地があった|磐余をどう見るか


飛鳥の東側、現在の桜井市西部を中心とする一帯には、磐余(いわれ)という古い地名があります。『日本書紀』などの史料には、この磐余に営まれた宮がいくつも記されています。
ただし、史料に宮の名前が残っていることと、その宮が実際にどこにあったのかが分かっていることは、同じではありません。
この章では、史料に書かれた磐余と、いま確認できることを分けながら見ていきます。



磐余には、史料にいくつもの宮の名前が残っています。ただし、その場所がすべて特定されているわけではありません。ここでは、「史料にある名前」と「確認された場所」を分けて見ていきます。
磐余とは|史料に宮の名が現れる土地
磐余は、奈良盆地の東南端、現在の桜井市西部を中心とする一帯を指すとされる古い地名です。
史料には、この地に営まれた宮の名がいくつも見えます。継体天皇の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)、用明天皇の磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)などがそれにあたります。
宮の名前と、実際の場所は別に考える
ここで一つ、注意しておきたいことがあります。史料に記された宮の名前と、実際の場所とを対応づけるのは、簡単ではありません。
磐余という地名が指す範囲そのものについても、複数の見方があります。
近年、磐余の周辺で古代の池にかかわるとみられる遺構が確認されたことが報じられました。ただし、それが史料に記された磐余池にあたるかどうかを含め、研究上の検討が続いています。
名前は史料、場所は検討中
この節に出てくる宮の名前は、いずれも史料に記されたものです。「この場所にこの宮があった」と発掘調査で確定しているわけではありません。名前は史料、場所は検討中——そう分けて読んでください。



桜井市西部から明日香村へ移動すると、磐余とされる一帯と飛鳥が比較的近い範囲にあることが分かります。史料の地名を、現在の地形と重ねながら眺めてみるのも面白いところです。
神武天皇の伝承|史実ではなく「語られてきた土地」として
橿原・磐余の周辺は、神武天皇にかかわる伝承が語り継がれてきた土地でもあります。
『日本書紀』『古事記』には、東へ向かった一行がこの地に至ったと記されています。そして畝傍山のふもとを、国のはじまりに結びつける物語が語られています。
『日本書紀』には、磐余という地名の由来を、この物語に結びつけて説く説話も見えます。磐余の地の旧名は別の名であったが、大軍が集まってその地に満ちたことから磐余と改めた——という筋立てです。神武天皇の名(諡号)に「磐余」の語が含まれることも、あわせて伝えられています。
伝承と発掘は分けて扱います
これらは史料に記された物語と、地域に伝えられてきた話です。神武天皇が実際にこの地へ入ったこと、地元の人々に迎え入れられたことなどが、発掘調査で確かめられているわけではありません。この記事では、史料・伝承と、発掘によって確認された事実とを、はっきり分けて扱います。
編集部の考察|なぜ、そう語られたのか
ここから先は編集部の考察です。
ここで考えたいのは、なぜ後の時代の人々が、この土地を「王を迎え、国のはじまりと結びつく場所」として語ったのか、ということです。
こうした語られ方そのものが、この一帯が後世に特別な場所とみなされてきたことを考える手がかりになる、と編集部では考えています。
ここまでのポイント
- 磐余は、現在の桜井市西部を中心とする一帯を指すとされる古い地名
- 『日本書紀』などには磐余に営まれた宮の名が記されている
- ただし、それぞれの宮の具体的な場所が発掘で確定しているわけではない
- 神武天皇の伝承は、史実の証明ではなく、この土地が後世にどう語られてきたかを見る材料として扱う
内陸なのに、外へ開いていた|難波・初瀬・近江へ


ここが、この記事の中心です。飛鳥がどの方向へ、どのように外とつながっていたのかを見ていきます。
飛鳥は山にかこまれた土地ですが、外から閉ざされていたわけではありません。





西・東・北東、それぞれの方向がどんな外の世界につながっていたのかを見ると、飛鳥という土地の性格が分かりやすくなります。
西へ|難波は、海の玄関口だった
奈良盆地の西には、生駒(いこま)・金剛(こんごう)の山々が連なります。その南寄り、二上山のふもとを越えていくと、河内(かわち)を経て、難波(現在の大阪市周辺)に至ります。
難波は、当時の日本にとって海の玄関口でした。史料には、難波の港(難波津)に外国からの使節が着き、都へ向かったことが記されています。のちに難波宮(なにわのみや)が営まれたのも、この地です。
西への道は、単に難波へ向かうだけではありません。その先の海を通して、飛鳥を外の世界へつなぐ道でもありました。
奈良盆地では、東西にまっすぐのびる横大路(よこおおじ)が、盆地を横切って走っていました。
史料には、613年、難波から都へ至る大道(おおじ)が設けられたことが記されています。研究上は、横大路と、二上山南の峠を越える竹内街道(たけのうちかいどう)とが、その東西の幹線にあたると考えられています。


道が先か、都が先か
ここで大切なのは、道と都の順序です。
この大道は、飛鳥が政治の中心となった後に整えられたものとして、史料に現れます。「先に立派な道があったから、飛鳥が都に選ばれた」という話ではありません。
史料から確認できる順序は、その逆です。飛鳥に政治の機能が集まっていく過程で、海の玄関口である難波との間を結ぶ官の道が整備されていった。その動きを示す証拠として読むのが適切です。
官道が整えられたことは、飛鳥と難波の往来が重要になっていたことを考える材料の一つです。



少なくとも史料からは、「道があったから飛鳥が都になった」とは言えないみたいです。
桜井へ|海石榴市という交通の要衝


奈良盆地を流れる川は、最終的に大和川(やまとがわ)へ集まり、西の山を抜けて河内平野へ出ていきます。盆地の水は、外へ流れ出しているわけです。
その川筋と陸路が交わる位置にあったとされるのが、海石榴市(つばいち)。現在の桜井市金屋(かなや)付近にあたるとされます。
桜井市観光協会の説明では、海石榴市は「わが国最古の市」とされ、いくつもの古道が交差する交通の要衝として紹介されています。史料にも、人が集まり、市が立ち、外国からの使節を迎えた場所として記されています。


名前の整理
- 海石榴市(つばいち)|古代の市の名。現在の桜井市金屋付近にあたるとされる
- 金屋(かなや)|現在の地名。初瀬川に面した一帯
- 初瀬川・大和川|同じ流れの上流と下流。西へ流れて河内平野へ出る
金屋の船着場は「伝えられている」話
一方、水運については、陸路とは少し事情が違います。
金屋のあたりに大和川(初瀬川)の船着場があったことは、桜井市の公式の説明でも「伝えられている」という形で語られています。発掘調査で港の施設が確認された、という段階の話ではありません。
ここは、どこまで確認できているかが違います
- 陸路|確認できること 海石榴市が、いくつもの古道が交わる交通の要衝だったことは、公的な説明で確認できます。
- 市・使節|史料に残ること 人が集まって市が立ち、外国からの使節を迎えたことは、史料に記されています。
- 水運|伝えられていること 金屋に船着場があったことは伝えられていますが、港の施設が発掘で確認されているわけではありません。
東へ|初瀬の谷筋という通り道
海石榴市のあたりから東へ進むと、初瀬の谷筋に入ります。盆地の東側では山が迫りますが、初瀬の谷はその山あいへと続いています。
奈良盆地南部は、西の難波方面へつながる道を持つ一方、東には山あいへ続く初瀬の谷筋がありました。



古代の道を説明した文章には、後の時代の街道と古代の道を重ねているものが少なくありません。この記事では、史料に記されていること、発掘で確認されていること、研究上そう考えられていることを、できるだけ分けて書いています。
北東とのつながり|近江の木材、若狭の塩
飛鳥・藤原から見た外へのつながりは、西の難波や東の桜井・初瀬だけではありません。
近江とのつながりは、藤原宮を造るための木材からも見えてきます。『万葉集』には、近江の田上山(たなかみやま)で切り出した木を宇治川へ流し、木津川まで運んだことが歌われています。そこから大和へ運ばれたと考えられています。
藤原の都は、近江から運ばれた木でも造られていました。
さらに、日本海側との交流を示す証拠もあります。藤原宮跡からは、若狭国(わかさのくに。現在の福井県西部)から送られた塩の荷札木簡が見つかっています。飛鳥京跡や飛鳥池遺跡からも、のちに若狭国となる地域の名を記した7世紀の荷札が出土しています。
荷札から分かること
- 若狭から飛鳥・藤原へ、塩などの物資が実際に届いていたことは確認できます
- ただし、荷札には運ばれた経路までは書かれていません
「飛鳥から近江を経て日本海へ続く一本の道」があった、とまでは言えません。では、若狭の塩は、どんな道をたどり、どんな人々の手を経て飛鳥・藤原まで運ばれてきたのでしょう。古代を生きた人々の営みを想像すると、少しワクワクしてきませんか。
山にかこまれた飛鳥・藤原は、決して内向きに閉じた土地ではありませんでした。人だけでなく、都を造る木材や生活を支える物資も、遠く離れた地域から集まっていたのです。
ここでは断定しないこと
初瀬の谷筋は、後の時代には伊勢方面へ向かう街道として知られます。
ただし、飛鳥時代にどのような道筋が使われていたのかは、今回確認した資料だけでは確かめきれませんでした。
そのため本記事では、飛鳥から伊勢、さらに東国へ主要な道が続いていたとは断定しません。
ここまでのポイント
- 西|二上山のふもとを越えて河内・難波へ。難波は海の玄関口だった
- 大道|613年に置かれたと史料に記されるが、飛鳥が中心となった後のこと
- 東|桜井の海石榴市は古道が交わる要衝。その先は初瀬の谷筋へ
- 北東|近江から藤原宮の造営材が運ばれ、日本海側の若狭からは塩が届いていた
- 山にかこまれながら、外とのつながりは一方向ではなかった


飛鳥|宮・寺・技術が山あいに集まる


そして飛鳥です。丘陵と谷が入り組むこの土地に、6世紀末以降、政治の機能が集まっていきます。この章では、何が集まったのか、なぜ何度も飛鳥が選ばれたのか、そしてそれが山あいで起きたことの意味を見ます。
集まっていったもの
飛鳥に置かれたのは、宮(天皇の住まいと政治の場)だけではありません。
役所(官衙〔かんが〕)が置かれ、寺院が建てられ、水を用いた庭園や施設がつくられ、時間を計る仕組みが導入され、儀礼の空間が整えられていきました。
海の向こうから来たもの
仏教をはじめ、建築や工芸、暦・時刻をめぐる知識、政治制度など、飛鳥で進んだ多くの変化は東アジアとの交流と深く結びついています。
外から入った知識や技術は、この地で受け入れられ、日本の社会に合わせながら形を変えていきました。
難波をはじめとする外部との交通は、こうした人・物・情報の交流を支える経路の一つでした。
飛鳥地域にある構成資産
世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のうち、飛鳥地域にあたるものには、次のような遺跡があります。
- 飛鳥宮跡——複数の時期にわたる宮殿の跡
- 飛鳥京跡苑池——宮に付属した庭園の跡
- 飛鳥水落遺跡——「時」を管理する施設にかかわるとされる跡
- 酒船石遺跡——水と石造物にかかわる遺跡
- 飛鳥寺(構成資産としての名称は飛鳥寺跡)——初期の本格的な寺院の跡
それぞれの遺跡が何を伝えているのかは、各記事と「19構成資産一覧」で紹介しています。
飛鳥は、一度きりの都ではなかった
飛鳥が重要なのは、一度だけ宮が置かれたからではありません。7世紀には政治の中心が難波へ移った時期がありましたが、その後、再び飛鳥に宮が営まれました。
さらに667年には政治の中心が近江大津へ移ります。しかし672年の壬申の乱の後、天武天皇は再び飛鳥を政治の中心とし、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)が営まれます。その後、694年には持統天皇が藤原宮へ移ります。
難波へ移っても飛鳥へ戻り、近江へ移っても、また飛鳥へ戻る。
なぜ飛鳥が、これほど繰り返し政治の中心に選ばれたのでしょうか。
その理由を一つに断定することはできません。ただ、すでに宮や寺院が営まれ、政治・宗教・技術にかかわる人や施設が集まっていたことや、土地の条件など、いくつかの背景を考えることはできます。
飛鳥が繰り返し選ばれたという事実そのものが、「なぜ、この土地だったのか」を考える重要な手がかりです。
山あいに集まった、ということの意味
ここで立ち止まりたいのは、これだけの機能が、まとまった平地の乏しい丘陵地に集まったという点です。
飛鳥では、丘陵と谷が入り組む地形の中に、複数の時期の宮や寺院、工房などが展開しました。藤原京のように、京域全体を条坊道路で大規模に区画した都市とは、土地の使われ方が異なります。
編集部のひとりごと
飛鳥では、長い期間にわたって宮が営まれ、その周辺に政治・信仰・技術にかかわるさまざまな施設が置かれました。
一度に完成した一つの都市として見るより、時代ごとの変化を重ねて見る方が、飛鳥の姿をつかみやすくなります。



飛鳥を歩くと、遺跡と遺跡の間に丘や田畑がはさまります。谷ひとつ越えるごとに景色が変わるのも、この土地ならでは。宮や寺が置かれた地形そのものにも目を向けてみてください。
藤原|大和三山の間に、計画された都を築く


694年、政治の中心は飛鳥から藤原京へ移ります。そこでは、飛鳥とは異なるかたちの都づくりが行われました。
計画された都
藤原京は、大和三山にかこまれた広い平地に営まれた都です。道路によって碁盤の目のように区画され、その中心に藤原宮が置かれました。
宮の中には政治を行う施設と役所が配置されます。都の中には大官大寺跡や本薬師寺跡といった国家の寺院も営まれました。
宮の跡は藤原宮跡として整備され、いまも三山にかこまれた広がりを実感できます。


飛鳥と藤原、都のつくり方の違い
| 都 | 大きな特徴 |
|---|---|
| 飛鳥 | 複数時期の宮や寺院・工房などが、丘陵と谷の間に展開する |
| 藤原 | 条坊道路で京域を大規模に区画し、宮を中心とする計画都市を築く |
これは「飛鳥には計画性がなく、藤原だけが計画された」という意味ではありません。藤原京では、京域全体を条坊道路で大規模に区画する都市計画が、より明確な形で現れます。
飛鳥から藤原へ|都の風景が変わる
飛鳥では、丘陵と谷のあいだに、時代ごとの宮や寺院が営まれました。
そのすぐ近くの藤原では、広い平地に条坊道路をめぐらせた都が築かれます。
同じ奈良盆地南部でも、目の前に広がる都の風景は大きく変わりました。



飛鳥と藤原の違いは、まず大づかみにつかんでおけば十分です。実際には、飛鳥の宮都のあり方も長い時間をかけて変化し続けていました。
では、なぜ飛鳥・藤原だったのか|五つの条件から考える


ここまで見てきたことを、最初の問いに重ね合わせます。
以下の五つは、「都が選ばれた理由5つ」ではありません。現在確認できる歴史・地理情報を重ねて考えるための、五つの条件です。
「飛鳥・藤原が都になった理由」が、どこか一つの史料にはっきり書き残されているわけではありません。地形・交通・発掘の成果・史料を重ねたうえで、読者の理解のために編集部が整理した見方であり、歴史上の確定した結論ではありません。
① 長い蓄積
奈良盆地のほぼ中央には弥生時代の唐古・鍵があり、東南部には古墳時代初頭の纒向がありました。さらに飛鳥の近くには、史料にいくつもの宮の名が現れる磐余という土地があります。
これらに直接の継承関係が確認されているわけではありません。ただ、飛鳥に宮都が営まれる以前から、奈良盆地の各地に、人や物が集まる拠点や、王権と結びつけて記された土地が現れていたことは確認できます。
② 交通
内陸でありながら、西には難波へつながる道があり、東には初瀬の谷筋が延びていました。桜井の海石榴市は、いくつもの古道が交わる交通の要衝として説明されています。
北東側との関係では、近江から藤原宮の造営材が運ばれています。
飛鳥が、山にかこまれながらも内向きに閉ざされた土地ではなかったことは、宮都の背景を考えるうえで重要です。
ただし、難波と飛鳥を結ぶ官の道が整えられたのは、飛鳥が政治の中心となった後のことです。道が先にあって都が決まったわけではありません。
③ 交流
仏教をはじめ、建築や工芸、暦・時刻をめぐる知識、政治制度など、飛鳥で進んだ多くの変化は東アジアとの交流と深く関わっていました。
こうした交流を支える人の往来と、外からの知識や技術を受け入れる環境が、この地域にはありました。



五つの条件は、順位ではありません。①が最重要で⑤がおまけ、という並べ方でもありません。重なりの厚さを見るための、五つの切り口です。
④ 地形
丘陵と谷が入り組む飛鳥と、大和三山にかこまれた広い平地の藤原が近接していました。
飛鳥では複数時期の宮や寺院などが地形の中に展開し、藤原では条坊道路によって京域全体を大規模に区画する都市計画が実現しました。
⑤ 王権との結びつき
飛鳥には、一人の大王の時代だけではなく、複数の時期に宮が営まれました。
さらに注目したいのは、政治の中心が難波や近江へ移ったあとにも、再び飛鳥へ戻っていることです。
飛鳥は、一度選ばれただけの土地ではありませんでした。
なぜ何度も飛鳥が選ばれたのか、その理由を一つに決めることはできません。ただ、すでに宮や寺院が営まれ、政治・宗教・技術にかかわる人や施設が集まっていたことなどは、背景を考える材料になります。
また、磐余や橿原周辺には、後世に王権や「国のはじまり」と結びつけて語られた伝承も残りました。
| 条件 | 読み取れること |
|---|---|
| ① 長い蓄積 | 飛鳥以前から、奈良盆地の各地に人や物が集まる拠点があり、王権と結びつく土地も史料に現れていた |
| ② 交通 | 内陸でありながら、西の難波・東の初瀬方面と結ばれていた |
| ③ 交流 | 外から来る文化・宗教・制度・技術を受け入れる環境があった |
| ④ 地形 | 丘陵と谷の飛鳥と、大和三山にかこまれた平地の藤原が近接していた |
| ⑤ 王権との結びつき | 飛鳥は複数の時期に政治の中心となり、難波・近江への移動後も再び選ばれた |
この土地を、どう言い表せるか
最後に、一つ確認しておきたいことがあります。
飛鳥・藤原を「誰のものでもない土地だった」と証明することはできません。そのような史料も、発掘の成果もありません。
同じように、一つの理由で都になった土地と説明することもできません。ただ、奈良盆地南部には人や物が行き交う道があり、東アジアとの交流があり、7世紀には政治の中心が何度も飛鳥に置かれました。そして、そのすぐ近くの藤原に、やがて本格的な計画都市が築かれます。
こうした土地と歴史を重ねて見ることで、「なぜ飛鳥・藤原だったのか」を考えることができます。



五つの条件は、「これが理由だ」という答えではありません。現在わかっていることを重ねると、そう見える——編集部の整理です。ぜひご自身でも「本当にそうだろうか」と考えてみてください。
飛鳥・藤原の宮都に関するよくある質問





ここからは、読みながら浮かびやすい疑問をまとめました。気になるものだけ拾って読んでいただいて構いません。
奈良盆地南部の、橿原市・桜井市・明日香村にまたがる一帯です。一つの場所を指す言葉ではなく、この一帯に残る宮殿・官衙跡、仏教寺院跡、墳墓など19件の遺跡をまとめて指しています。
同じ場所ではありませんが、隣り合っています。飛鳥は主に現在の明日香村周辺で、丘陵と谷が入り組む地形。藤原は主に橿原市の藤原宮跡周辺で、大和三山にかこまれた広い平地です。歩いて行き来できるほど近い距離に、性格の違う二つの土地が並んでいます。
「これが理由だ」と一つに決められる説明は、史料には残されていません。ただ、飛鳥以前から奈良盆地に人や物が集まる拠点があったこと、外とつながる交通や交流、飛鳥と藤原の異なる地形、そして飛鳥が複数の時期に繰り返し政治の中心となったことなどを、背景として考えることができます。
一か所に固定されていたわけではありません。ただ、奈良盆地の東南部には、古墳時代初頭の纒向遺跡のように、広い範囲の人や物が集まる拠点があったと考えられています。また、史料には、飛鳥の近くにある磐余に営まれた宮の名がいくつも記されています。
直接の継承関係を示す根拠はありません。唐古・鍵は弥生時代の大規模な環濠集落で、場所も奈良盆地のほぼ中央(田原本町)と、盆地南部の飛鳥とは異なります。飛鳥・藤原がある盆地南部の前身にあたる遺跡、というわけではありません。ただ、飛鳥に宮都が営まれるはるか以前から、奈良盆地に人と物が集まる大きな拠点があったことは確かです。
纒向は古墳時代初頭の遺跡で、飛鳥時代とは数百年の隔たりがあります。研究上は、纒向は初期のヤマト王権にかかわる政治的な拠点だったと考えられていますが、そこから飛鳥へ直接引き継がれた、という単純な流れではありません。奈良盆地の異なる場所に、時代ごとに人や物が集まる拠点が現れていた、と理解するのが適切です。
現在の桜井市金屋付近にあたるとされる、古代の交通と交易の要所です。桜井市観光協会の説明では「わが国最古の市」とされ、いくつもの古道が交差する交通の要衝と紹介されています。史料にも、人が集まり、市が立ち、外国からの使節を迎えた場所として記されています。なお、金屋のあたりに船着場があったことは「伝えられている」という形で語られており、発掘調査で港の施設が確認された、という段階の話ではありません。
「便利だった」と単純に言い切ることはできませんが、閉じた土地ではありませんでした。西には河内・難波へつながる道があり、東には初瀬の谷筋が延びています。桜井の海石榴市は、いくつもの古道が交わる交通の要衝として説明されています。ただし、交通のつながりがあったことと、「だから飛鳥が都に選ばれた」ということは別の話です。難波と飛鳥を結ぶ官の道が史料に現れるのは、飛鳥が政治の中心となった後です。
遷都の理由を一つに断定することはできません。ただ、藤原には大和三山にかこまれた広い平地があり、そこには条坊道路で京域を大規模に区画した計画都市が築かれました。飛鳥から藤原への移動は、国家の制度や都のあり方が大きく変わっていく時期の中で捉える必要があります。
別記事「飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧」で、19件すべての名称・分類・役割と、各遺跡の個別記事への入口をまとめています。
まとめ|都は、突然ここに現れたのではない


奈良盆地のほぼ中央に、弥生時代の大規模な集落、唐古・鍵がありました。盆地の東南部、三輪山のふもとには、古墳時代初頭の纒向がありました。また、飛鳥の近くにある磐余には、史料にいくつもの宮の名が記されています。
そして盆地の南部、飛鳥に宮都が営まれ、やがて隣り合う藤原の平地に、計画された都が現れます。
これらを、同じ勢力が順番に受け継いだ一本の歴史として結ぶことはできません。時代も場所も、性格も異なります。
それでも、飛鳥に宮都が営まれる以前から、奈良盆地には人や物が集まる拠点があり、飛鳥の近くには史料に宮の名が現れる磐余という土地もありました。
6世紀末以降、飛鳥には繰り返し宮が営まれます。政治の中心が難波や近江へ移った後にも再び飛鳥が選ばれ、694年には、そのすぐ近くの藤原に計画都市が築かれました。
飛鳥・藤原の歴史は、何もない土地に突然始まったわけではありません。
こうした土地と歴史を踏まえると、飛鳥は、日本という国のかたちが育つために必要だった「ゆりかご」のような場所――そのようにも言えるのではないでしょうか。



この記事で見てきたのは、19の遺跡そのものではなく、その遺跡が生まれた土地と歴史の背景です。次は19の構成資産をたどりながら、この土地に何が残されたのかを、実際に観にいきましょう。
次に読むと、さらに理解が深まります。
- 19の遺跡から「何が起き、何が残ったのか」を読む:飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧
- 飛鳥の政治の中心を訪ねる:飛鳥宮跡
- 計画された都の中心を訪ねる:藤原宮跡
- 世界遺産登録の決定:世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会(2026年7月26日「世界遺産一覧表への記載が決定」)/文化庁/UNESCO世界遺産センター(第48回世界遺産委員会)
- 構成資産(名称・所在・分類):登録推進協議会「構成資産」/文化庁・文化遺産オンライン/各自治体
- 飛鳥・藤原の遺跡と発掘成果:奈良文化財研究所/奈良県立橿原考古学研究所/明日香村・橿原市・桜井市/国営飛鳥歴史公園
- 7世紀の政治の中心の移動(難波・近江大津・飛鳥浄御原宮・藤原宮):『日本書紀』/大阪市(難波宮跡)/大津市歴史博物館「近江大津宮」/奈良文化財研究所・明日香村(飛鳥宮跡)
- 飛鳥以前の遺跡:唐古・鍵遺跡(田原本町・唐古・鍵考古学ミュージアム)/纒向遺跡(桜井市・奈良県立橿原考古学研究所)
- 古代の交通:横大路・竹内街道・難波〜飛鳥の大道(奈良県・橿原市・桜井市・葛城市・大阪府・堺市・奈良文化財研究所)/『日本書紀』推古天皇21年(613年)条「難波より京に至る大道を置く」
- 海石榴市:一般社団法人 桜井市観光協会(「わが国最古の市」、いくつもの古道が交差する交通の要衝)
- 藤原宮の造営材と近江:奈良文化財研究所(田上山から宇治川・木津川を経て泉の津へ)/奈良県立万葉文化館「万葉百科」『万葉集』巻一・五〇「藤原宮の役民の作れる歌」
- 若狭国からの塩の荷札木簡:文化庁 広報誌ぶんかる「地下の正倉院展-年号と木簡-」(藤原宮跡出土、庚子年=700年)
- 飛鳥京跡・飛鳥池遺跡・石神遺跡出土の若狭関係木簡:福井県立図書館・文書館(舘野和己「木簡から読む古代のふくい」/「図説福井県史」古代6)=実物は奈良文化財研究所・奈良県立橿原考古学研究所蔵
- 琵琶湖の水運:国土交通省近畿地方整備局 水のめぐみ館「アクア琵琶」(畿内と北国をつなぐ水上交通の要衝)
- 金屋の船着場:桜井市(「船着場があった場所で…上陸したと伝えられています」との伝承表現。発掘確認済みの港湾施設としては扱わない)
- 史料:『日本書紀』『古事記』『万葉集』ほか=いずれも史料としての記述であり、現代の確定事実として扱わない
- 各構成資産の詳細:19構成資産一覧および各個別記事
編集・取材情報
この記事は、飛鳥・藤原地域での現地確認・撮影と、公的機関・文化財関連機関が公開する資料や情報の確認をもとに編集しています。
掲載している現地写真は、特記がない限り当サイトによる現地撮影です。
歴史上の出来事や遺跡の解釈について複数の説がある場合は、一つの説を確定した事実として扱わず、史料や調査成果をもとに区別して紹介するよう努めています。
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