石舞台古墳の巨大な石を組んだ石室があるから。
高松塚古墳やキトラ古墳の壁画が有名だから。
日本でも初期の本格的な仏教寺院とされる、飛鳥寺があるから。
——実は、それだけではありません。
「飛鳥・藤原の宮都」は、2026年7月26日、韓国・釜山で開かれた第48回世界遺産委員会で、世界遺産一覧表への記載が決まりました。奈良盆地南部の橿原市(かしはらし)・桜井市(さくらいし)・明日香村(あすかむら)にまたがる、19件の遺跡で構成されています。
有名な遺跡が集まっているから登録された、というわけではありません。19の遺跡が、たがいに補い合いながら、ある一つのことを伝えているからです。
それは、国のしくみが形づくられていく「途中」です。
みここの記事では、19件を一つずつ覚える必要はありません。「なぜ、この遺跡群が世界遺産に選ばれたのか」という問いだけを持って読み進めてください。現地での景色の見え方が、少し変わるはずです。
この記事でわかること
- 世界遺産に選ばれた理由が、大きく2つに整理できること(登録基準(ii)と(iii))
- 飛鳥と藤原を、なぜ一緒に見る必要があるのか
- 平城京や平安京と、飛鳥・藤原では何が違うのか
- 「何もないように見える」宮跡を、どう見れば面白いのか
- 大和三山(やまとさんざん)は構成資産なのか、という素朴な疑問への答え
飛鳥・藤原がどんな場所なのかは「飛鳥・藤原の宮都とは|なぜ、この土地だったのか」で、19件それぞれの内容は「飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧」で紹介しています。この記事は、「なぜ世界遺産なのか」という一点にしぼって見ていきます。


世界遺産になったのは、ひとつの遺跡ではない


まず、いちばん誤解されやすいところから整理します。
石舞台古墳や飛鳥寺、藤原宮跡が、それぞれ単独で世界遺産になったわけではありません。登録されたのは、「飛鳥・藤原の宮都」という一つのまとまりです。
そのまとまりを構成しているのが、19件の遺跡(構成資産)です。公式には、次の3つに分類されています。
| 分類 | 件数 | どんな遺跡か |
|---|---|---|
| 宮殿・官衙跡(きゅうでん・かんがあと) | 5件 | 宮殿や役所など、政治の中心にかかわる遺跡 |
| 仏教寺院跡 | 7件 | 飛鳥寺跡をはじめとする寺院の跡 |
| 墳墓(ふんぼ) | 7件 | 古墳や陵墓 |
宮殿の跡と、寺院の跡と、お墓。種類のまったく違う遺跡が、なぜ一つの世界遺産なのか。
その答えが、次の章で見る「2つの理由」です。
19件の名称と位置は「19構成資産一覧」にまとめています。ここでは件数と分類だけ、頭の片隅に置いておいてください。
世界遺産になった大きな理由は2つ


世界遺産は、「登録基準」というものさしに照らして評価されます。全部で10項目あり、そのうち少なくとも1つに当てはまることが条件です。
「飛鳥・藤原の宮都」が認められたのは、基準(ii)と基準(iii)の2つです。


| 登録基準 | この遺跡群では、どう評価されたか |
|---|---|
| 基準(ii) | 中国大陸や朝鮮半島との緊密な交流のなかで、外から入ってきた文化・技術・思想が受け入れられ、後の時代にも影響を残した |
| 基準(iii) | 宮や都の位置・配置・つくりの移り変わりから、中央集権的な国家のしくみが形づくられていく過程を読み取れる |
ひとことでまとめるなら、「外とのつながり」と「国ができていく過程」の2つです。
順番に見ていきます。
理由①|東アジアとの交流
6世紀から8世紀初めにかけての飛鳥・藤原は、島国の奥まった土地に閉じこもっていたわけではありませんでした。
中国大陸や朝鮮半島の国々との、政治的・文化的な交流のただ中にありました。
その交流を通じて、仏教という新しい信仰が伝わります。あわせて、寺院建築、瓦づくり、仏像や絵画の技術、文字を用いた行政、暦、都市計画など、さまざまなものがもたらされました。
ここで大切なのは、それらをそのまま写し取ったわけではないということです。
海を渡ってきた人々(渡来人)を積極的に受け入れながら、外来の文化を、日本列島にもとからあった伝統と組み合わせていく。そうしてできあがったのは、どこかの写しではない、新しい社会と国家のしくみでした。
飛鳥・藤原の遺跡は、その「受け入れて、組み替えていった」過程を、地面に残された形で伝えています。



「大陸の文化を取り入れた」と聞くと、外国のものをそっくり真似したように感じるかもしれません。でも実際には、入ってきたものを自分たちの事情に合わせてつくり変えています。基準(ii)が評価しているのは、その組み替えの過程のほうです。
理由②|国ができていく過程
もう一つの理由は、少し言葉が難しくなります。「中央集権的な国家の形成過程を示している」という点です。
かみくだくと、こういうことです。
有力な豪族たちがそれぞれに大きな力を持っていた社会から、中央の政府が共通のきまりで国全体を治めるしくみへ——その変化の途中が、ここに残っている。
ただし、これを「ある日、国家が完成した」という物語として読まないでください。
宮の場所は何度も動き、都は飛鳥を離れ、また戻ってきます。制度は一度に整ったのではなく、試して、直して、また試す、という積み重ねでした。
飛鳥・藤原の遺跡が伝えているのは、その何十年もの試行錯誤そのものです。



「豪族の時代から中央集権国家へ」という流れは、まっすぐな一本道ではありませんでした。進んだり、戻ったり、別の道を試したり。飛鳥・藤原の遺跡を見るときは、「うまくいった結果」ではなく「模索の跡」として眺めると、実際の姿に近づきます。
飛鳥寺を見れば「交流」が形になった瞬間が見える


基準(ii)の「交流」は、言葉だけだと少し遠く感じるかもしれません。
そこで、目に見える形になった代表例として、飛鳥寺を挙げておきます。
史料では、『日本書紀』に、588年に飛鳥寺(法興寺)の造営が始まったと記されています。このとき、朝鮮半島の百済(くだら)から、寺づくりや瓦づくりにたずさわる技術者が渡ってきたとも伝えられます。596年には堂塔が整ったとされます。
飛鳥寺は、日本でも初期の本格的な仏教寺院とされ、有力豪族の蘇我氏(そがし)がかかわったと考えられています。
ここで注目したいのは、宗教だけが伝わったのではない、という点です。
礎石の上に柱を立てる建て方、屋根に瓦を葺(ふ)く技術、伽藍(がらん)の配置の考え方。それまでこの土地になかった建築のしくみが、寺院という形でまとめて持ち込まれました。
飛鳥の地に、瓦屋根をもつ大規模な寺院が現れる。当時の人にとって、それは相当に見慣れない光景だったはずです。
もちろん、飛鳥寺一つが日本を変えたわけではありません。飛鳥寺は、交流が目に見える形になった代表例として見るのが適切です。
飛鳥寺の詳しい見どころは「飛鳥寺・飛鳥大仏の見どころと拝観案内」で紹介しています。





飛鳥寺を訪ねたら、建物そのものだけでなく、足もとや周囲の地形にも目を向けてみてください。かつての伽藍がどれくらいの広がりを持っていたのかを想像すると、「新しい技術が入ってきた」という実感が近づいてきます。
なぜ「飛鳥」と「藤原」を一緒に見るの?


ここからが、この記事の中心です。
「飛鳥・藤原の宮都」という名前には、性格の違う2つの土地が並んでいます。片方だけでは、世界遺産としての意味が見えにくくなります。


| 飛鳥 | 藤原 | |
|---|---|---|
| おおよその時期 | 588〜694年(世界遺産が対象とする飛鳥の宮都) | 694年〜710年 |
| 土地のかたち | 丘陵と谷が入り組む | 大和三山にかこまれた広い平地 |
| 都のつくり方 | 宮を中心に、機能が少しずつ育つ | はじめから都として計画される |
| 見えてくるもの | 新しいしくみを試す段階 | 試したしくみが形になる段階 |
飛鳥では、「国をつくる方法」そのものが試されていました。
藤原では、その方法が、一つの大きな都の形になっていきました。
この2つが隣り合って残っているからこそ、「模索していた時期」と「形になった時期」を、続きものとして見ることができます。
飛鳥では「試行錯誤」が見える


飛鳥で何が試されていたのか。遺跡に即して見てみます。
宮そのものが動いています。 飛鳥宮跡では、同じ一帯に7世紀の複数時期の宮殿が重なるように営まれたことが、発掘調査から分かっています。宮の造営が何度も繰り返された跡が、そのまま積み重なって残っているということです。
都が飛鳥を離れた時期もあります。 7世紀の半ばには難波(なにわ/現在の大阪市)へ、その後は近江大津(おうみおおつ/現在の大津市)へ都が移されました。そのたびに、政治の中心は飛鳥へ戻ってきます。
政治にかかわる施設が増えていきます。 儀礼や饗宴の舞台になったと考えられる苑池(えんち=庭園)、水を用いた石造物、そして時間を管理する施設。
飛鳥水落遺跡は、漏刻(ろうこく=水時計)にかかわる施設とされる遺跡です。史料では『日本書紀』に、斉明天皇(さいめい)の時代に漏刻が置かれたと伝えられ、発掘・研究ではその記述と関連づけて考えられる遺構が見つかっています。
国が時間を管理し、人に知らせる。それは、役所の仕事や儀礼を共通のきまりで動かすための土台になります。
寺院が現れます。 飛鳥寺に続いて、各地に寺院が営まれ、新しい信仰と技術が広がっていきました。
宮、役所、儀礼、時間、寺院。これらが一度にそろったのではなく、必要に応じて足され、組み替えられていった——飛鳥の遺跡群は、その積み重ねの記録です。
飛鳥宮跡は「飛鳥宮跡の見どころ」、水落遺跡は「飛鳥水落遺跡の見どころ」で紹介しています。それぞれの遺跡が国家形成のどこを示すのかは、「19構成資産一覧」で詳しく整理しています。



飛鳥の宮は、一度建てたら完成、ではありませんでした。建て替え、移し、また戻る。その繰り返しが遺構の重なりになって残っています。「まだ決まったやり方がなかった時代」の記録だと考えると、わかりやすくなります。


藤原京で「国のかたち」が都市になる


694年、都は藤原京へ移されたと伝えられます。
飛鳥からは、目と鼻の先です。しかし、都のつくり方は大きく変わりました。
発掘・研究では、藤原京は道路によって碁盤の目のように区画され(条坊=じょうぼう)、その中心に宮(藤原宮)が据えられた、計画的な都市であったことが分かっています。
飛鳥のように、宮のまわりに機能が少しずつ育っていくのではありません。藤原京では、宮、道路網、寺院などが、都の構造のなかに計画的に配置されました。
ここで起きたことを、ひとことで言えばこうなります。
国を治めるしくみが、都市の形として目に見えるようになった。
役所がどこに、どれくらいの規模で置かれるのか。国家の寺院が都のどこに位置づけられるのか。それらが土地の上に配置されたということは、統治のしくみそのものが、かなりの程度まで整理されていたことを示します。
藤原宮跡は「藤原宮跡の見どころ」で、藤原京に営まれた国家寺院などは「19構成資産一覧」で紹介しています。


平城京には整った都の姿が見える。飛鳥・藤原には「形成の過程」が残る


ここが、飛鳥・藤原がほかの古代の都と違うところです。
平城京や平安京は、律令にもとづく国家のしくみが、すでに整った段階の都です。訪ねると、できあがった古代国家の姿が見えてきます。
一方、飛鳥・藤原はどうでしょうか。
宮の場所は何度も動き、都は離れてはまた戻り、藤原京での本格的な条坊の都は十数年で平城京へ引き継がれていきます。
つまり、飛鳥・藤原に残っているのは、国のかたちが生まれていく過程です。
世界遺産としての評価も、この点に関わっています。すでに制度が確立したあとの都と比べたとき、飛鳥・藤原は、制度そのものが形づくられていく過程を具体的にたどれる遺跡群である——そう位置づけられました。
すでに整った都だけを見るのでは分からない、形成の途中をたどれる。だからこそ、他では見られないものが見えてきます。
これが、「なぜ世界遺産なのか」への、いちばん核心に近い答えです。



「途中」という言葉を、未熟という意味に受け取らないでください。完成した都からは読み取れないもの——どう試し、どう決めていったのか——が読み取れる、という意味です。
宮殿・寺院・古墳――3つの窓から見る19構成資産


19件を一つずつ覚える必要はありません。3つの視点で束ねると、全体像がつかみやすくなります。


| 視点 | 何が分かる | 代表例 |
|---|---|---|
| 宮殿・官衙跡 | 国をどう治めたか | 飛鳥宮跡、飛鳥水落遺跡、藤原宮跡 |
| 仏教寺院跡 | どんな思想・文化・技術を受け入れたか | 飛鳥寺跡、川原寺跡、山田寺跡 |
| 墳墓 | 権力・社会・葬送がどう変わったか | 石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳 |
古墳について、少しだけ補足します。
巨大な石を組んだ石室をもつ石舞台古墳は、豪族が大きな力を持っていた時代を考える手がかりです。
一方、高松塚古墳やキトラ古墳の壁画には、四神(しじん)や天文図、人物群像が描かれています。いずれの壁画も国宝に指定されています。
墓の大きさ、形、葬り方、そして描かれるもの。その変化は、社会と権力のあり方が変わっていったことを示すと考えられています。
各遺跡の詳細は「19構成資産一覧」から個別記事へ進めます。
「何もないように見える」のに、なぜ世界遺産なの?


現地を訪ねた方が、いちばん戸惑うのがここだと思います。
飛鳥宮跡にも、藤原宮跡にも、巨大な古代建築がそのまま建っているわけではありません。広い草地と、地面に示された遺構の表示が広がっています。
では、なぜ世界遺産なのでしょうか。
答えは、地面の下にあります。
発掘調査によって、柱を立てた穴(柱穴)、建物の基礎、道路の跡、水路、区画の線などが確認されています。それらをつなぎ合わせると、建物の大きさ、並び方、宮殿と役所の位置関係、都全体の区画といった、都の姿が浮かび上がってきます。
現在見えない遺構の多くは、発掘調査のあと、保護のために埋め戻されています。
だから現地では、「建物を見る」のではなく、地面に残された配置を読み取ることが大切になります。
飛鳥・藤原は、建物を見上げる世界遺産ではありません。
土地に残された「国づくりの設計図」を読む世界遺産です。



現地では、地面の表示や解説板を先に見てから、そこに立って周囲を見渡してみてください。「ここに何が建っていたか」より「どちらを向いて、どう並んでいたか」に注目すると、都の骨格が想像しやすくなります。


大和三山は世界遺産なの?


藤原京を語るとき、必ず出てくるのが大和三山です。香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)の3つの山を指します。
先に、はっきりお伝えします。
大和三山そのものは、19の構成資産には含まれていません。
ただし、無関係というわけでもありません。
藤原京は、この三山にかこまれた平地に営まれました。都の立地や景観、都市の設計を考えるうえで、三山は欠かせない存在です。
藤原宮跡に立って三山を見渡すと、この土地がどういう場所として選ばれたのかが、体感として分かります。
「構成資産ではないが、理解には欠かせない」。そういう距離感で見ておくと、混乱しません。



大和三山そのものは、19の構成資産ではありません。ただし、藤原京の立地や景観を理解するうえでは重要です。世界遺産の範囲と、現地で歩ける範囲・見える景色は、必ずしも同じではないと考えてください。
飛鳥・藤原から、奈良・京都へ


710年、都は平城京(へいじょうきょう)へ移ります。さらに794年には平安京(へいあんきょう)へ。
藤原京で本格的な条坊の都が営まれた期間は、十数年ほどでした。
短い、と感じるかもしれません。けれども、藤原京で形になったしくみは、そこで終わったわけではありません。都のつくり方も、役所のしくみも、国家の寺院の位置づけも、次の都へ引き継がれていきます。
飛鳥で導入・試行され、藤原で体系化されていった仕組みは、後の奈良・京都の都にも展開していきます。
飛鳥・藤原を先に見ておくと、奈良や京都の景色の見え方も変わってきます。完成した都の背後に、それをつくり上げるまでの長い模索があったことが、実感として分かるからです。
なぜ世界遺産なのか――答えは「古いから」ではない


ここまでを、ひとつにまとめます。
飛鳥・藤原が世界遺産になったのは、遺跡が古いからでも、有名な古墳や寺院が集まっているからでもありません。
海を越えた交流のなかで、新しい文化・技術・思想を受け入れ、それを自分たちの伝統と組み合わせながら、国のしくみそのものをつくり変えていった。その過程が、19の遺跡によって具体的にたどれるからです。
飛鳥・藤原の価値は、古いものが残っていることだけにあるのではありません。中央集権的な国家のしくみが形づくられ、藤原で一つの段階を迎えるまでの過程を、遺跡を通してたどれることにあります。



世界遺産に選ばれた理由は、大きく2つ。「東アジアとの交流のなかで新しいものを受け入れ、組み替えたこと」(基準ii)と、「国のしくみが形づくられていく過程が読み取れること」(基準iii)。19の遺跡は、その2つを、たがいに補い合って伝えています。
世界遺産の飛鳥・藤原は、歩くともっと面白い


理由が分かると、現地の見え方が変わります。最後に、歩くときの視点を3つだけ。
- 1. 宮跡では、建物ではなく「配置」を見る。 何が建っていたかより、どこに、どの向きで並んでいたか。統治のしくみは、配置に表れます。
- 2. 寺院跡では、外から来たものを探す。 瓦や礎石、伽藍配置には、東アジアとの交流を背景に取り入れられた寺院建築の技術を見ることができます。
- 3. 古墳では、大きさと形の変化を見る。 巨大な石室から、小さく整った墓へ。その変化は、社会の変化と重なります。
飛鳥・藤原がどんな土地なのかを先に知りたい方は「飛鳥・藤原の宮都とは」へ。19件それぞれを知りたい方は「19構成資産一覧」へどうぞ。
では、飛鳥・藤原は「世界」とどうつながっていたのか?


この記事では、「なぜ世界遺産なのか」を見てきました。
その答えの半分は、外とのつながりでした。中国大陸や朝鮮半島との交流のなかで、新しい文化や技術が入ってきた、ということです。
では——その文化や技術は、そもそもどこから来たのでしょうか。
中国・朝鮮半島との交流を、さらに西へたどっていくと、ユーラシアの広い交流の世界が視野に入ってきます。また、日本列島の側にも、飛鳥時代よりはるか前から、海や川を使って遠くとやりとりしてきた長い歴史がありました。
飛鳥・藤原は、列島の内と外で長く続いてきたさまざまな交流の流れが、大きく重なった場所の一つとして見ることができます。
次の記事では、その「つながり」のほうを見ていきます。
次に読む:世界とつながる飛鳥・藤原|海を越えた交流から生まれた古代日本
よくある質問


飛鳥・藤原の宮都は、いつ世界遺産になりましたか?
2026年7月26日、韓国・釜山で開かれた第48回世界遺産委員会で、世界遺産一覧表への記載が決まりました。登録基準は(ii)と(iii)の2つです。
世界遺産になったのは、明日香村全体ですか?
いいえ。登録されたのは19件の構成資産で、橿原市・桜井市・明日香村にまたがって点在しています。村や市の全域が世界遺産というわけではありません。周辺の資料館・展示施設・駐車場なども、構成資産そのものではありません。
なぜ19か所をまとめて一つの世界遺産にするのですか?
一つの遺跡だけでは、国のしくみが変わっていく過程を示せないからです。宮殿や役所は政治のしくみを、寺院は受け入れた文化や技術を、古墳は権力や社会の変化を伝えます。19件がたがいに補い合うことで、はじめて「国ができていく過程」が見えてきます。
石舞台古墳が有名だから登録されたのですか?
いいえ。石舞台古墳は19件のうちの一つで、豪族が大きな力を持っていた時代を考える手がかりとして位置づけられます。知名度の高さが登録理由になったわけではありません。
飛鳥寺は、なぜそんなに重要なのですか?
史料では、588年に造営が始まったと記され、日本でも初期の本格的な仏教寺院とされます。仏教という信仰だけでなく、寺院建築・瓦・伽藍配置といった新しい技術が、あわせて持ち込まれました。海を越えた交流が、目に見える形になった代表例として重要です。
建物が残っていないのに、なぜ世界遺産なのですか?
建物そのものの多くは失われていますが、柱穴や建物の基礎、道路や区画などの考古学的遺構が地下に残っています。発掘調査後、遺構の多くは保護のため再び埋め戻されています。
大和三山も世界遺産ですか?
大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)そのものは、19の構成資産に含まれていません。ただし、藤原京の立地や景観、都市設計を理解するうえでは重要な存在です。
平城京や京都とは、何が違うのですか?
平城京・平安京は、国のしくみがすでに整った段階の都です。飛鳥・藤原は、そのしくみが形づくられていく途中の姿を残しています。「完成した都」と「できていく途中の都」という違いです。
飛鳥時代と藤原京の時代は、どう区切って考えればよいですか?
世界遺産の説明では、飛鳥寺の造営が始まる588年から、藤原京へ都が移る694年までを「飛鳥の宮都」、694年から710年までを「藤原の宮都」として捉えています。
一方、「飛鳥時代」という歴史上の時代区分は、資料や説明によって区切り方が異なります。この2つは同じ意味ではありません。
この記事では、世界遺産としての飛鳥・藤原を説明するために、588〜694年/694〜710年という区分を用いています。
19件すべてを回らないと意味がありませんか?
そんなことはありません。宮殿・官衙/寺院/古墳のうち、関心のある視点を一つ選んで歩くだけでも、この記事で見てきた「国ができていく過程」は十分に感じられます。見学できる範囲や公開条件は資産ごとに異なるため、訪問前に公式情報をご確認ください。
まとめ|「国のかたちが生まれる過程を歩く」世界遺産


「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産になった理由は、大きく2つでした。
世界遺産になった2つの理由
一つは、中国大陸や朝鮮半島との交流のなかで、新しい文化・技術・思想を受け入れ、それを列島の伝統と組み合わせて、新しい社会と国家のしくみへ変えていったこと(基準ii)。
もう一つは、豪族たちがそれぞれ力を持つ社会から、中央の政府が国全体を治めるしくみへと変わっていく、その形成の過程を19の遺跡が具体的に伝えていること(基準iii)。
飛鳥では、国をつくる方法が試されていました。藤原では、その方法が都市の形になりました。そして、そのしくみは平城京・平安京へ引き継がれていきます。
だから、飛鳥・藤原に残っているのは、整った国家の姿だけではありません。
そこへ至るまでの、形成の過程そのものです。
草地に見える宮跡も、丘の上の古墳も、寺院の礎石も、その過程を伝える記録です。それを知ってから歩くと、何もないように見えた景色が、少しずつ意味を持ちはじめます。
飛鳥・藤原は、古いものを見に行く場所であると同時に、国のかたちが生まれる過程を歩いてたどれる場所です。
【おもな出典・確認先】
- 世界遺産登録の決定・登録基準:UNESCO世界遺産センター(第48回世界遺産委員会)/文化庁/世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会
- 構成資産(名称・分類・所在):世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会/文化庁/各自治体
- 史料:『日本書紀』(飛鳥寺の造営、漏刻ほか)=史料としての記述であり、現代の確定事実として扱わない
- 各構成資産の詳細・発掘成果:各構成資産の個別記事
