天武・持統天皇陵古墳(てんむ・じとうてんのうりょうこふん)は、奈良県明日香村野口にある陵墓です。宮内庁が「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として治定・管理しており、壬申の乱ののちに即位した天武天皇と、その皇后で自らも天皇となった持統天皇が、ひとつの陵にともに葬られていると案内されています。
最初に正直にお伝えすると、ここは石室や出土品を見学できる観光地ではありません。現地で目にするのは、木々に覆われた墳丘の高まりと、その前に設けられた静かな拝所です。
先に結論
天武・持統天皇陵古墳は、「中を見る」場所ではなく、拝所の前で想像する場所。ここには「見えないからこそ想像がふくらむ」材料がそろっています。藤原宮の真南という位置。八角形という特別な形。そして、伝統的な埋葬と日本の天皇として初めてとされる火葬が、ひとつの陵に重なっていること。——どれも、古墳時代が終わり、日本という国の形が整っていく時代を物語るものです。
この記事でわかること
- 拝所の前で思い浮かべたい3つの手がかり(位置・形・葬法)
- なぜ「被葬者の比定がきわめて確か」とされるのか——鎌倉時代の盗掘記録『阿不幾乃山陵記』
- アクセス・参拝時間・高松塚古墳や藤原宮跡との回遊ルート
まずは、現地の風景から見てみましょう。

静かな森と拝所——この風景のどこに何を重ねて見ればよいのかを、この記事で順番に案内します。
参拝前に確認
- 陵墓は宮内庁が管理する参拝の場です。拝所から静かに参拝し、柵の内側や墳丘には立ち入らないようにしましょう
- 専用駐車場の公式な案内は確認できていません。路上駐車は避け、公共交通・レンタサイクルの利用がおすすめです
- 参拝時間などは変わることがあります。お出かけ前に宮内庁の公式情報をご確認ください
この記事では、「いま現地で見えるもの」と「資料から分かること」を分けたうえで、拝所の前に立ったときに何を思い浮かべればよいのかを、古代史に馴染みのない方にも分かりやすく案内します。なお、天武・持統天皇陵古墳は、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつです(2026年7月26日登録)。
結論:天武・持統天皇陵古墳は、拝所と地形から「国の形が整う時代」を想像する合葬陵

最初に、この記事の結論をお伝えします。
天武・持統天皇陵古墳は、藤原京の南に置かれた合葬陵として、「古墳時代の終わり」と「律令国家への転換」をひとつの場所で感じられる史跡です。
拝所の前で思い浮かべたい手がかりは、次の3つです。
- 位置——この陵は、藤原宮の中軸にあたる朱雀大路の真南に位置すると説明されています。宮殿と墳墓が一体的に構想された——都の設計図の中に、この場所が組み込まれていたのです
- 形——木々に覆われた高まりは、研究上は八角形の墳丘(八角墳)と説明されます。飛鳥時代の天皇陵のみに許されたといわれる、新しい権威の形です
- 葬法——陵の中には、天武天皇の棺と、火葬された持統天皇の骨を納めた器が、ともに納められたと伝えられます。古墳時代以来の埋葬と、仏教的な火葬——ふたつの時代が、ひとつの陵に重なっています
みこここは「中を見る」場所ではなく、拝所の前で「位置・形・葬法」の3つを思い浮かべる場所。この3つさえ持っていけば、静かな森が「時代の変わり目」に見えてきますよ。
それでは、この陵墓の基本情報から順に見ていきます。
天武・持統天皇陵古墳とは——宮内庁が檜隈大内陵として治定する陵墓


天武・持統天皇陵古墳は、明日香村の南部、野口の集落近くの丘に位置しています。
宮内庁は、この場所を第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵「檜隈大内陵」として治定・管理しており、1881年(明治14)2月に治定されたと説明されています。研究の場では、地名から野口王墓(のぐちのおうのはか)古墳とも呼ばれてきました。
表A|天武・持統天皇陵古墳の基本情報(2026年7月7日時点)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 構成資産名 | 天武・持統天皇陵古墳 |
| 宮内庁治定陵名 | 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ) |
| 被葬者(治定) | 第40代天武天皇・第41代持統天皇の合葬陵(宮内庁の案内による) |
| 陵形(宮内庁の案内) | 円丘 |
| 墳形(考古学・研究上) | 対辺間の距離約42メートルの八角形墳と説明される(呼び方が異なる理由は次章で整理) |
| 築造時期 | 7世紀後半と説明される(古墳時代の終わりごろ〈終末期〉) |
| 所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字野口 |
| アクセス | 近鉄飛鳥駅から徒歩約17分(宮内庁) |
| 参拝 | 原則、年間をとおして参拝可能・8時30分〜17時(宮内庁)。拝所からの参拝のみで、墳丘内は非公開 |
治定・世界遺産の補足
- 1881年(明治14)2月に宮内庁(当時の宮内省)の治定陵となる。文化財指定ではなく宮内庁治定陵
- 世界遺産:「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産(2026年7月26日登録)——正式な説明は次項
- 表の内容は2026年7月7日時点の確認にもとづく。参拝時間などの最新情報は宮内庁の公式情報で確認
世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産
世界遺産との関係も整理しておきます。「飛鳥・藤原の宮都」は、2026年7月26日に世界遺産一覧表への記載が決定し、登録基準(ii)(iii)が認められました。天武・持統天皇陵古墳は、その構成資産のひとつです。「飛鳥・藤原の宮都」は、飛鳥から藤原京へと日本の国家が形づくられた時代を伝える、19の構成資産からなる世界遺産です。
宮跡・寺院跡とともに墳墓のグループがあり、この陵は、宮殿と墳墓が一体的に造営されたことを示す資産として位置づけられています。その意味は、このあとの「見どころ①」でくわしく案内します。
現地でまず知っておきたいこと——内部ではなく、拝所・地形・位置関係を見る


天武・持統天皇陵古墳を訪ねる前に、いちばん大切なことを整理しておきます。この場所の見どころは、性質のちがう3つの層に分かれているということです。
天武・持統天皇陵古墳で見分けたい3つの層
- ① いま現地で見えるもの:参道・拝所・木々に覆われた墳丘の高まり・周辺の地形
- ② 資料から分かること:八角形の墳丘・藤原宮の真南という位置・埋葬と火葬の合葬・『阿不幾乃山陵記』
- ③ 伝承として味わうこと:「てんむさん」という土地の呼び名・額田王墓の伝承
表B|天武・持統天皇陵古墳で「見られるもの」3層整理(2026年7月7日時点)
| 分類 | 内容 | どう見る・どう受け止めるか |
|---|---|---|
| ① いま現地で見えるもの | 参道、拝所、木々に覆われた墳丘の高まり、周辺の丘と集落の地形 | 拝所から参拝する。内部・墳丘は見学できない |
| ② 資料から分かること | 八角形の墳丘、藤原宮の真南という位置、天武の埋葬と持統の火葬・合葬、『阿不幾乃山陵記』の記録 | 現地の風景にこの記事の解説を重ねて「想像」する |
| ③ 伝承として味わうこと | 「てんむさん」という土地の呼び名、周辺に残る額田王墓の伝承 | 史実と分けて、土地の記憶として味わう |




「円丘」と「八角墳」——ふたつの呼び方を整理する
もうひとつ、現地で迷いやすい点を先にほどいておきましょう。この陵の「形」には、ふたつの呼び方があります。
宮内庁の案内では陵形は「円丘」とされています。一方、考古学・研究上は「八角形の墳丘(八角墳)」と説明されています。
これは、どちらかが間違っているというより、管理上の案内と研究上の説明という、立場の異なるふたつの言い方が並んでいる状態です。現地で見上げる森の高まりは丸くしか見えませんが、資料の上では八角形——この「見え方と知識のずれ」ごと楽しむのが、陵墓めぐりのコツです。



説明書きで「円丘」、ガイドブックで「八角墳」——どっち?と迷ったら、「宮内庁の案内では円丘、研究では八角墳」とセットで覚えてしまいましょう。飛鳥の陵墓ではよくある「ふたつの呼び方」です。
見どころ①:藤原宮の真南——宮殿と一体で構想された陵墓


それでは、この場所の見どころを順に案内します。まずは「位置」です。
朱雀大路の延長線上に置かれた陵
天武・持統天皇陵古墳は、藤原宮の中軸にあたる朱雀大路の真南に位置し、墳墓と宮殿が一体的に造営されたことを示すと説明されています。
藤原京は、694年に持統天皇が遷都した、日本で最初の本格的な都城とされる都です。その都の南北の背骨——朱雀大路——を南へ延ばした先に、天武天皇の眠る陵が位置している、というのです。
これは、考えてみるとすごいことです。都を設計するとき、宮殿や役所だけでなく、亡き天皇の陵の位置までが、都の軸線の上に意識されていた——つまりこの陵は、単なるお墓ではなく、新しい国家の「設計図」の一部だったと説明されているのです。


※位置関係は上の概念図(F2)で示します。概念図は位置のイメージを伝えるためのもので、正確な地図や縮尺図ではありません。
拝所の前で、北を思い浮かべる
現地の拝所から、藤原宮跡が直接見えるわけではありません。けれども、拝所の前に立ったら、自分の背にした墳丘から、正面のはるか北へまっすぐ線を引くイメージを思い浮かべてみてください。
その線の先に、かつて藤原宮の大極殿があり、天武天皇の妻であり後継者であった持統天皇が政務をとっていた——位置関係を知っているだけで、静かな拝所が「都とつながる場所」に変わります。
藤原宮跡そのものの見どころは、藤原宮跡の見どころでくわしく紹介しています。
見どころ②:八角墳という形——新しい天皇権威を示す終末期古墳


次は「形」です。
前方後円墳の時代の終わりに
古墳時代といえば、鍵穴の形をした巨大な前方後円墳を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし6世紀の終わりごろになると、前方後円墳は造られなくなり、有力者の墓は方墳や円墳へと変わっていきます。そして7世紀の飛鳥時代には、天皇陵とみられる墓で八角形という特別な形が重視されたと説明されています。
天武・持統天皇陵古墳の墳丘は、対辺間の距離が約42メートルの八角形墳と説明されています。八角形の墳丘は、飛鳥時代の天皇陵のみに許されたといわれる形です。
大きさで力を誇示した前方後円墳の時代から、形そのもので天皇の特別さを示す時代へ——この変化は、豪族たちの連合の上に立つ「大王」から、律令にもとづいて国を治める「天皇」へという、王権のあり方の変化と重ねて語られています。







八角形は、どの方角から見てもほぼ同じ形。「あらゆる方向の中心に立つ」天皇のイメージと結びつけて語られることがあります。目の前の丸い森を、頭の中で八角形に描き直してみましょう。
飛鳥の八角墳をくらべて見る
飛鳥には、八角墳あるいはその可能性が指摘される終末期古墳がいくつかあり、見くらべると時代の流れが立体的になります。
表C|飛鳥の八角墳・終末期古墳くらべ(各記事の内容と同期・2026年7月7日時点)
| 古墳 | 時期・形 | 見どころの型 |
|---|---|---|
| 牽牛子塚古墳 | 7世紀後半ごろ/八角墳(復元整備済み) | 八角形の墳丘を外から見て体感できる。斉明天皇(皇極天皇)と間人皇女の合葬墓とする説が有力とされる |
| 天武・持統天皇陵古墳 | 7世紀後半/八角形墳と説明される(宮内庁の案内では円丘) | 拝所から参拝する陵墓。藤原宮の真南という位置と、合葬・葬法の転換を「知って想像する」 |
| 中尾山古墳 | 7世紀後半〜8世紀初/八角墳 | 火葬墓と説明され、文武天皇陵とする説が有力とされる。持統天皇の「次の時代」を感じる |
| 高松塚古墳・キトラ古墳 | 7世紀後半〜8世紀初/円墳 | 極彩色壁画。天皇陵ではない有力者の墓として語られる |
牽牛子塚古墳が復元整備によって「八角形を見る」場所だとすれば、天武・持統天皇陵古墳は「八角形を想像する」場所です。同じ八角墳でも、見どころの型がまったく違うので、あわせて訪ねると理解が深まります。
見どころ③:天武の埋葬と持統の火葬——古墳時代の終わりと葬送の転換


3つめの見どころは、この陵の中に納められた「ふたつの葬法」です。ここが、天武・持統天皇陵古墳のいちばん深い見どころだと、この記事では考えています。
天武天皇——古墳時代以来の伝統的な埋葬
天武天皇は、壬申の乱(672年)に勝利して即位し、飛鳥浄御原宮で政治をとった天皇です。『日本書紀』には、天皇中心の国づくりを進め、律令の制定や新しい都の造営に着手したことが記されています。
686年に亡くなると、長い殯(もがり——遺体を安置して別れを惜しむ儀礼)ののち、檜隈大内陵に葬られたと記されます。
天武天皇の埋葬は、棺に遺体を納める、古墳時代以来の伝統的な葬法で行われたと説明されています。墳丘を築き、石の部屋に棺を安置する——その意味で、この陵は「最後の古墳」の系譜に連なっています。
持統天皇——天皇として初めての火葬
天武天皇の皇后だった持統天皇は、夫の死後に自ら即位し、夫が構想した新しい国家の形を実現していきます。694年の藤原京への遷都、701年の大宝律令の完成——「日本」という国号や「天皇」という称号が制度として整うのは、まさにこの時代のこととされています。
その持統天皇は、日本の天皇として初めて火葬された人物として知られます。大宝2年(702)の暮れに亡くなり、火葬ののち、夫・天武天皇の眠る檜隈大内陵に合葬されたと記されます。
火葬は仏教とともに広まった葬法で、持統天皇の火葬は、古墳時代以来の墓制から、仏教的な葬送観への大きな転換点として語られています。
史料に記される、ふたつの葬送のあゆみ
- 672年:壬申の乱。勝利した天武天皇が即位へ
- 686年:天武天皇が亡くなる。長い殯ののち、檜隈大内陵に葬られたと記される(伝統的な埋葬)
- 694年:持統天皇が藤原京へ遷都
- 701年:大宝律令の完成
- 大宝2年(702)の暮れ:持統天皇が亡くなる。火葬ののち、同じ陵に合葬されたと記される(天皇として初めての火葬)
ひとつの陵に重なる、ふたつの時代
つまり、この陵の中には、伝統的な葬法で葬られた天武天皇の棺と、火葬された持統天皇の骨を納めた器が、ともに納められたと伝えられているのです。
巨大な墳丘と棺の時代——古墳時代——がここで終わり、火葬と小さな墓、そして律令国家の時代が始まる。夫婦であり、政治のパートナーでもあったふたりの天皇の葬られ方の違いそのものが、時代の変わり目を語っています。
この陵のあと、古墳時代以来の大きな墳丘をもつ王陵のあり方は、しだいに終わりへ向かっていくと説明されています。天武・持統天皇陵古墳は、文字どおり「古墳時代のしめくくり」に立つ陵墓なのです。



同じ陵に「棺」と「骨壺」が並んでいる——難しい話はさておき、この一点だけでも「時代が変わる瞬間のお墓なんだ」と感じられますよね。拝所の前で思い出してほしいのは、まさにここです。


なぜ天武・持統天皇陵だと考えられているのか——鍵は鎌倉時代の盗掘記録


ところで、飛鳥時代の天皇陵の多くは、「本当にその天皇のお墓なのか」をめぐって研究上の議論があります。そのなかで天武・持統天皇陵は、少し特別な位置にあります。
「比定がきわめて確か」とされる意味
天武・持統天皇陵は、飛鳥の天皇陵のなかでも、被葬者の比定がきわめて確かな陵墓とされています。
ただし、それは「自由に発掘されて中身が確認された」という意味ではありません。陵墓は原則として自由な発掘調査の対象ではないため、内部を直接確かめることはできないのです。
ここでいう「確か」とは、文献史料・墳形・藤原宮との位置関係、そして鎌倉時代の盗掘記録が重なって、非常に整合的に説明できるという意味です。ひとつひとつは間接的な手がかりでも、それらが同じ答えを指している——そこがこの陵の特別なところです。
『阿不幾乃山陵記』——鎌倉時代の盗掘記録
その手がかりのなかでも決定的とされるのが、鎌倉時代の記録『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』です。
文暦2年(1235)、この陵は盗掘の被害に遭いました。『阿不幾乃山陵記』は、その際に陵の内部の様子を書きとめた記録で、天武天皇に関わる木棺と、持統天皇に関わる火葬の骨を納めた器(蔵骨器)と考えられる記述があるとされています。
盗掘という痛ましい出来事の記録が、皮肉にも、この陵の内部を伝えるほとんど唯一の史料になっているのです。
記録に見える「棺」と「蔵骨器」の組み合わせは、『日本書紀』や『続日本紀』が伝える天武天皇の埋葬と、天皇として初めて火葬された持統天皇の合葬という理解と、ぴたりと重なります。明治時代にこの記録の写本が知られるようになったことが手がかりとなり、1881年(明治14)に現在の治定につながったと説明されています。



ネット上には「大雨で崩れて中身が流れ出て分かった」といった話も流れていますが、比定の根拠とされているのは、鎌倉時代の盗掘記録『阿不幾乃山陵記』です。劇的な偶然譚ではなく「記録が残っていたこと」がこの陵の価値なんです。


近代以降の保全と、土地の記憶
宮内庁書陵部は、昭和34〜36年・50年に行われた檜隈大内陵の調査成果を、後年あらためて整理・報告しています。近代以降の陵墓について考えるときも、現在の景観だけでなく、こうした調査記録の積み重ねが重要な手がかりになります。
そして、地元では、親しみをこめて「てんむさん」と呼ばれてきたともいいます。史料や考古学だけでなく、長い時間のなかでこの森を見上げてきた土地の人々の記憶も、この場所の大切な見どころです。拝所の静けさには、そうした時間も積もっています。
アクセス・参拝の注意点・周辺の巡り方


最後に、実用情報です。変動情報はすべて2026年7月7日時点の確認です。お出かけ前に最新の公式情報をご確認ください。
天武・持統天皇陵古墳へのアクセスと参拝
アクセス・参拝情報(2026年7月7日時点)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 電車 | 近鉄「飛鳥駅」から徒歩約17分と案内されています(宮内庁) |
| 参拝できる日 | 原則、年間をとおして参拝可能(宮内庁) |
| 参拝時間 | 原則、8時30分〜17時(宮内庁) |
| 参拝のかたち | 拝所からの参拝のみ。墳丘・柵内には立ち入れません |
| 駐車場 | 専用駐車場の公式な案内は確認できていません。周辺は集落と生活道路のため、路上駐車は避け、公共交通・レンタサイクルの利用がおすすめです |
| マナー | 陵墓は信仰と管理の場所です。静かに参拝し、柵や垣の内側に立ち入らない、大声を出さないなどの配慮を。参拝時の留意事項は宮内庁の公式情報で確認できます |


周辺の巡り方——「古墳時代の終わり」をたどるルート
天武・持統天皇陵古墳は、飛鳥駅の東側、高松塚古墳やキトラ古墳と同じエリアにあります。
表D|周辺スポットとの位置関係(2026年7月7日時点)
| スポット | 天武・持統天皇陵古墳との関係 | ひとこと |
|---|---|---|
| 高松塚古墳 | 飛鳥駅方面の近隣 | 極彩色壁画で知られる終末期古墳。「その後」の時代の墓 |
| 中尾山古墳 | 高松塚古墳の近く | 八角墳・火葬墓。文武天皇陵とする説が有力とされる。「火葬の時代」の続きを見る |
| キトラ古墳 | 南へ足を延ばして | 四神の壁画。「四神の館」で公開される |
| 檜隈寺跡・於美阿志神社 | 南西へ徒歩圏 | 渡来系氏族・東漢氏ゆかりの寺跡。「檜隈」の地名つながり |
| 本薬師寺跡 | 北の藤原京方面 | 天武天皇が発願し持統天皇が引き継いだ寺。この夫婦の「祈り」の側を見る |
| 藤原宮跡 | 北へ・朱雀大路の先 | この陵の真北にあたる宮跡。セットで訪ねると「位置」の見どころが完成する |


おすすめは、飛鳥駅→高松塚古墳→中尾山古墳→天武・持統天皇陵古墳と「古墳時代の終わり」をたどるルート。高松塚古墳は高松塚古墳の見どころでくわしく紹介しています。
時間があれば、北の本薬師寺跡・藤原宮跡まで足を延ばすと、この記事で紹介した「宮殿と陵墓の一体的な構想」を、両側から体感できます。本薬師寺跡は本薬師寺跡の見どころ、藤原宮跡は藤原宮跡の見どころをどうぞ。飛鳥中心部の飛鳥宮跡の見どころや飛鳥寺の見どころとあわせれば、飛鳥から藤原京への流れがひとつの物語になります。
なお、この周辺には、万葉集の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)の墓と伝える場所があるともいわれます。確かな史実ではなく、飛鳥に重なる伝承のひとつですが、天武天皇ゆかりの歌人の名がこの土地に残っていること自体が、飛鳥らしい時間の厚みです。伝承地は私有地などの場合がありますので、立ち入らず、道からそっと土地の記憶に思いをはせるにとどめましょう。



陵墓・伝承地・集落は、いまも人の暮らしと祈りの場所。拝所から静かに参拝し、柵内・墳丘・私有地には入らないのがマナーです。「入れない場所を想像で歩く」のが飛鳥の楽しみ方ですよ。
天武・持統天皇陵古墳に関するよくある質問


参道と拝所、木々に覆われた墳丘の高まり、そして周辺の丘と集落の景観が見られます。展示施設はありません。
「藤原宮の真南」「八角墳」「埋葬と火葬の合葬」という3つの知識を持って、拝所から想像するタイプの史跡です。
できません。宮内庁が管理する陵墓のため、拝所からの参拝のみです。
内部の様子は、鎌倉時代の盗掘記録『阿不幾乃山陵記』などの資料から知られているにとどまります。
『日本書紀』『続日本紀』の記事、八角形とされる墳形、藤原宮の真南という位置、そして鎌倉時代の盗掘記録『阿不幾乃山陵記』の内容が、互いに整合することが根拠とされています。
飛鳥の天皇陵のなかでも、比定がきわめて確かな陵墓とされています。
文暦2年(1235)にこの陵が盗掘された際、内部の様子を書きとめたとされる鎌倉時代の記録です。
天武天皇に関わる木棺と、持統天皇に関わる火葬の骨を納めた器と考えられる記述があるとされ、被葬者を考えるうえで最も重要な史料のひとつとされています。
八角墳は、墳丘を八角形に築いた古墳で、飛鳥時代の天皇陵のみに許されたといわれる形と説明されています。
宮内庁の案内ではこの陵の陵形は「円丘」とされており、研究上の「八角形墳」という説明とは呼び方が異なります。本記事では両方を併記しています。
持統天皇は、日本の天皇として初めて火葬された人物として知られます。
『続日本紀』に火葬と合葬のことが記され、『阿不幾乃山陵記』の蔵骨器と考えられる記述とも重なると説明されています。
近鉄飛鳥駅から徒歩約17分と案内されています。参拝は原則、年間をとおして可能で、8時30分〜17時とされています(いずれも宮内庁・2026年7月7日時点)。
専用駐車場の公式な案内は確認できていません(2026年7月7日時点)。公共交通やレンタサイクルの利用がおすすめです。
高松塚古墳・中尾山古墳・キトラ古墳と同じエリアにあり、「古墳時代の終わり」をテーマにまとめて巡るのに向いています。
はい。天武・持統天皇陵古墳は、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつです。2026年(令和8年)7月26日の世界遺産委員会で登録が決定しました。
この陵は、藤原宮の真南に位置し、宮殿と墳墓が一体的に造営されたことを示す資産として位置づけられています。
まとめ:藤原京の南に、飛鳥から新しい国家へ向かう時間を重ねて見る


天武・持統天皇陵古墳の見どころを、あらためて整理します。
まとめチェック
- 天武・持統天皇陵古墳(明日香村野口)は、宮内庁が檜隈大内陵として治定・管理する、天武天皇と持統天皇の合葬陵。拝所から参拝する陵墓で、内部や墳丘を見学する場所ではありません
- 藤原宮の中軸=朱雀大路の真南に位置すると説明され、宮殿と墳墓が一体的に構想されたことを伝えています
- 墳丘は、研究上は八角形墳と説明されます(宮内庁の案内では円丘)。八角形は、飛鳥時代の天皇陵のみに許されたといわれる、新しい天皇権威の形です
- 陵には、伝統的な葬法で葬られた天武天皇の棺と、天皇として初めて火葬されたと知られる持統天皇の蔵骨器が納められたと伝えられ、古墳時代の墓制から仏教的な葬送への転換をひとつの陵で示しています
- 被葬者の比定は、文献・墳形・位置関係・鎌倉時代の盗掘記録『阿不幾乃山陵記』の重なりによって、飛鳥の天皇陵のなかでもきわめて確かとされています
- 現在の静かな陵墓景観は、調査記録の積み重ねと、「てんむさん」と呼んで親しんできた土地の人々の記憶とともにあります
- 天武・持統天皇陵古墳は、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつです(2026年7月26日登録)
巨大な古墳の時代が終わり、律令国家の時代が始まる。——その境目に立つのが、この合葬陵です。拝所の前に立ったら、北へ延びる見えない一本の線と、森の下に眠る棺と蔵骨器を思い浮かべてみてください。
ここがただのお墓ではなく、飛鳥から藤原京へ、日本という国の形が整っていく時代を示す場所であることが、静けさの中から立ち上がってくるはずです。
お出かけの際は、参拝時間・交通などの最新情報を、宮内庁などの公式情報でご確認ください。
