キトラ古墳と高松塚古墳は何が違う?|壁画・被葬者・歴史に残された謎

キトラ古墳と高松塚古墳の違いと謎を紹介するイメージ画像

どちらも奈良県明日香村にある、極彩色の壁画で知られる古墳。どちらも1300年ほど前のお墓で、どちらの壁にも四神が描かれ、天井には星があります。

それなら、よく似た二つの古墳なのでしょうか。

石室の中をのぞくと、答えは変わります。高松塚の壁には着飾った男女が並び、キトラの壁には動物の顔をした十二支が並んでいました。天井の星空も、描き方がまったく違います。そして、これほど手のこんだお墓なのに、どちらも誰が眠っているのか分かっていません。

まず結論
  • 土台は同じです。どちらにも四神・太陽と月・星が描かれています
  • 違うのは、壁に加えた像です。高松塚は男女の群像、キトラは動物の顔をした十二支
  • 天井の星の並べ方も違います。キトラは北極を中心に円であらわした天文図、高松塚は星座を四角く並べた星宿図
  • どちらも、誰のお墓かは不明です。
みこ

二つの古墳の違いは、1300年前の飛鳥を知る手がかりです。

私、識乃ミコと一緒に、壁画の向こうに広がる古代の世界をのぞいてみましょう。

この記事でわかること
  • 二つの古墳の違いを一覧で
  • 誰のお墓か分からない理由
  • 高松塚の人物とキトラの十二支
  • 天井の星宿図と天文図の違い
  • 二つの古墳が生まれた時代

壁画の実物は保存のため古墳から取り出されており、ふだんの見学では見られません。実物の公開や展示施設の情報は変わることがあります(2026年10月11日確認)。

目次

キトラ古墳と高松塚古墳は、何が違う?

高松塚とキトラの人物表現・天井の星・石室・被葬者を比べた図
※比較内容を分かりやすく整理した図です。人物・壁画の表現には説明用のイメージを含みます。

二つの古墳は、明日香村の南西部、檜前(ひのくま)と呼ばれる小さな盆地の近くにあります。直線でおよそ1kmの距離です。

どちらも石室の内側に漆喰(しっくい)を塗り、その上に絵を描いていました。ところが、何をどう描いたかを並べると、違いがはっきり見えてきます。

表1|キトラ古墳と高松塚古墳の違い

比べることキトラ古墳高松塚古墳
造られた時期7世紀末〜8世紀初めごろ7世紀末〜8世紀初め
誰のお墓?分かっていない分かっていない
共通する壁画四神・太陽と月・天井の星四神・太陽と月・天井の星
四神のほかの像動物の顔をした十二支男女の群像(飛鳥美人)
四神4体がそろう。白虎は北向き朱雀は失われている。白虎は南向き
天井の星北極を中心に円であらわす「天文図」星座を四角く並べる「星宿図」
墳丘の大きさ下段の直径 約13.8m下段の直径 約23m
出土品棺の飾り金具・刀の飾り・ガラス玉・人骨など中国から運ばれたとみられる鏡や大刀の飾りなど

※墳丘の大きさは国営飛鳥歴史公園の案内による。

造られた順番は、キトラが先で、高松塚は8世紀の初めとみる見方が有力です。ほぼ同じ時代に、同じような石室をもつお墓が、すぐ近くで造られたことになります。

四神・太陽と月・星という土台は同じです。そのうえで、壁に加えた像と、天井の星の並べ方が違う。 ここが、二つの古墳を見比べるいちばんの面白さです。

キトラ古墳の復元墳丘
キトラ古墳の復元墳丘。小ぶりな円墳で、すぐそばに四神の館があります。
高松塚古墳の復元墳丘
高松塚古墳の復元墳丘。キトラ古墳より大きな円墳です。

それぞれの古墳の見学案内は、こちらの記事で紹介しています。

キトラ古墳の見どころを詳しく見る
高松塚古墳の見どころを詳しく見る

こんなに立派なのに、誰のお墓か分からない

こんなに立派なのに、誰のお墓か分からないを紹介するイメージ画像
創作イラストを含む説明用のイメージ画像です。実物壁画や古代の景観を正確に復元したものではありません。

極彩色の壁画に、金箔の星。これだけ手をかけたお墓なら、さぞ名のある人が眠っているはずです。ところが、二つの古墳とも、被葬者(ひそうしゃ=葬られた人)は特定されていません。

名前は分からなくても、お墓そのものには、造った人たちの手の跡が残っています。まずは、石の部屋と棺を見てみましょう。

石の部屋は、どうやって造られたのか

二つの古墳の石室は、二上山(にじょうさん)の凝灰岩(ぎょうかいがん)という石を、四角く切って組み上げたものです。中は、棺がひとつ入るほどの小さな部屋。キトラの石室は18個の石でできていて、奥行きは約2.4m、幅は約1m、高さは1.2mほどです。高松塚の石室は、幅はほぼ同じで、奥行きが28cmほど長く造られています。

造り方もよく似ています。天井と床の石は南から北へ、東西の壁の石は北から南へと順に置いていました。この順番は、高松塚とキトラで完全に一致しています。

石には、職人たちの仕事の跡も残っていました。キトラの石には、朱で引いた線が117か所、つなげると24本分見つかっています。石を切ったり削ったりするときの、目印の線です。石の位置を少しずつ動かして合わせるための、てこを差し込む穴もありました。

石の仕上げにも、工夫が見られます。入口側から見える面はていねいに磨き、見えない天井石の上の面は、粗く削ったままにしていました。

みこ

1300年前の石工たちの手の跡が、石そのものに刻まれています。

表A|二つの石室は何が違う?

比較項目 キトラ古墳 高松塚古墳
石室の材料 二上山の凝灰岩 二上山の凝灰岩
石室の大きさ 床面の奥行き約2.4m 床面の奥行きがキトラより約28cm長い
石材の組み方 切石18個。天井と床は南から北、東西の壁は北から南へ組む 石材を組む方向がキトラと一致
共通の仕組み 南側から棺を納め、南壁石で閉じる 同様に南壁石で閉じる

棺を納め、石の部屋を閉じる

石室の南の壁の石は、最後にはめ込む「ふた」の役目をしていました。石室をいったん組み上げたあと、南の石を外して部屋を開け、棺を納めてから、もう一度はめ込んで閉じたのです。

南壁石を外して棺を納め、再び南壁石で閉じる石室構築の3段階を示す模式図
石室を閉じる工程の模式図です。天井を省略し、石材の数・形・配置は簡略化しています。

重い石を動かすために使われたのが、コロ(丸太)です。キトラの石室の前の通路(墓道)には、コロを転がしたレールの跡が4本残っていました。高松塚でも、同じように4本見つかっています。

ところが、キトラでは閉じる作業に苦労したようです。南の石と床のあいだには、本来はぴったり合うはずのところに1cmほどのすきまができていました。報告書は、天井の石の一つが南へ傾く造りだったことも、作業のさまたげになったとみています。

石室の床には、棺を載せた台(棺台)の跡も残っていました。幅は68cmほどで、高松塚の棺台とほぼ同じです。長さは石室の奥行きに合わせて少し短く、石室・棺台・棺を、ひとつながりで設計していたことがうかがえます。

石室を閉じたあとのことも、少しだけ分かっています。キトラでは、コロのレールを取り外し、通路の床を土でならしたあとに、太さ10cmほどの柱が2本立てられていました。同じような柱の穴は、高松塚でも見つかっています。

整理のポイント

発掘で確かめられていること
石室を閉じ、通路の床を仕上げたあとに、柱を立てた穴がある

調査報告書の見方
通路を埋め戻す直前の、お墓の前での儀式に関わる柱だった可能性がある

分かっていないこと
柱を立てた目的と、そこで何が行われたのか

棺と副葬品に残る、職人たちの技

高松塚の棺は、漆を塗った木の棺でした。杉の板に麻布を貼り、漆を何度も塗り重ねて、内側を朱で仕上げていたことが報告されています。

棺には、持ち手の輪を取り付ける金具が付いていました。その取り付け方は、飛鳥時代後半の天皇の墓に並ぶ格の古墳に限られていたとみられています。取り付けた部分を花の形の金具で覆い隠す手法は、キトラや、石室のよく似たマルコ山古墳でも使われていました。

いっぽうで、高松塚の金具には、つくりの粗いものも混じっていました。報告書は、この古墳のために一点ずつ作らせた品ではなく、国の工房で作られた金具が使われた可能性を指摘しています。

副葬品からも、当時の工芸の水準がうかがえます。

表B|副葬品にはどんな違いがある?

比較項目 キトラ古墳 高松塚古墳
棺 漆塗木棺の破片・棺金具 漆塗木棺の残片・棺金具
刀の装具 刀装具が出土 唐風の銀装飾を施した大刀装具
玉類 ガラス玉など 淡い青色のガラス小玉1000点以上
注目される出土品 人骨・歯、棺金具など 海獣葡萄鏡、大刀装具など

高松塚の海獣葡萄鏡は、中国から運ばれてきた可能性が高いとされています。銀で飾った大刀の金具も、正倉院に伝わる唐風の大刀に並ぶ出来ばえで、中国から運ばれてきた可能性が高いとみられています。

似た造りの石室でも、大きさや残された品には違いがあります。ただし、この表は残って見つかった品の比較です。表にない品が、もともと存在しなかったという意味ではありません。

大刀の金具がそろって残っていたのには、わけがあります。盗掘のころには、木でできた鞘や柄が朽ちて、金具がばらばらになっていたらしいのです。そのため、刀身以外の金具は、持ち去られずに石室に残されたと考えられています。

キトラからも、漆を塗った棺のかけら、棺の飾り金具、刀の飾り、ガラス玉、そして骨と歯が見つかっています。

どちらも盗掘を受けているため、残った品の数や種類だけで、二人の身分を比べることはできません。何が残るかは、盗掘のされ方にも左右されるからです。

高い身分の人だった、という手がかり

それでも、ただの有力者のお墓ではなかったらしい、という手がかりがあります。ひとつは天井の星です。中国・唐の都の周辺では、天井に星空を描いたお墓は、かなり高い位の人に限られていました。星を描くこと自体が、身分の高さを示している可能性があります。

もうひとつは、先に見た中国から運ばれたとみられる鏡や大刀、そして天皇の墓に並ぶ格の棺の金具です。

一方で、キトラは墳丘も石室も高松塚よりひとまわり小さいことが分かっています。キトラの調査報告書は、この規模の差に、葬られた人の身分の差が表れているとみています。

候補として名前が挙がる人たち

それぞれの古墳には、被葬者の候補が挙げられてきました。

まだ分かっていないこと

確かめられていること
どちらの古墳も、被葬者は特定されていません。キトラの石室からは人の骨と歯が見つかり、50〜60歳代の男性1人分と分かっています。

人骨や歯の出土は、葬られた人の名前を特定する証拠ではありません。

表C|誰が眠っていると考えられている?

古墳 主な候補・説 現状
キトラ古墳 高市皇子、百済王昌成、阿部御主人など 特定されていない
高松塚古墳 天武天皇の皇子説、臣下説、朝鮮半島系王族説 特定されていない

キトラの候補のうち、高市皇子(たけちのみこ)は天武天皇の皇子、百済王昌成(くだらのこにきししょうじょう)は高い位にあった人物、阿部御主人(あべのみうし)は右大臣です。「阿倍御主人」とも書かれますが、ここでは候補を紹介する国営飛鳥歴史公園の案内の表記に合わせました。

候補に挙がっていることと、有力と証明されたことは別です。どの説にも決め手はなく、特定の人物のお墓とは言えません。

高松塚の候補説については、高松塚古墳の見どころの記事でも紹介しています。

なぜ、名前が分からないのか

理由のひとつは、どちらも盗掘を受けていることです。高松塚では、石室に入った盗掘者が棺を西側へ寄せたあとが残っていました。灯りに使った土器から、盗掘は13世紀前半ごろと分かっています。副葬品の多くは、もとの位置から動かされていました。

キトラでは骨まで残っていましたが、それでも誰なのかは特定されていません。候補の名前は挙がっても、どれも決め手がないのです。

みこ

誰が眠るのかは分からないのに、描かれた世界は残った。 二つの古墳の謎は、ここから始まります。

高松塚の男女たち、キトラの十二支の武人たち

高松塚の男女たち、キトラの十二支の武人たちを紹介するイメージ画像
人物・十二支像の創作イラストを含む説明用画像です。実物壁画の写真や、像の姿・衣装の正確な復元ではありません。

どちらの古墳も、四方の壁の中央には四神を描きました。その四神のまわりに何を描き加えたか。そこに、二つの古墳の個性がよく表れています。

高松塚の壁に並ぶ16人

高松塚古墳の東と西の壁には、男性4人、女性4人のグループが2組ずつ、合わせて16人が描かれています。

なかでも有名なのが、西の壁の女性たちです。赤や緑の衣をまとった姿が色あざやかに残り、「飛鳥美人」の愛称で親しまれてきました。特定の一人の名前ではなく、この女性たちの群像につけられた呼び名です。

男性たちは、日よけの傘など、さまざまな持ち物を手にしています。人物の並べ方や描き方は、唐の都・長安の周辺にあるお墓の壁画とよく似ています。当時の唐の流行を取り入れた画風です。

キトラの壁をめぐる、動物の顔の十二支

キトラ古墳には、こうした人物の群像がありません。かわりに描かれていたのが、動物の頭と人の体をもつ十二支です。

十二支は、四神の下に、各壁3体ずつ並んでいました。北の壁の中央が子(ね=ねずみ)、南の壁の中央が午(うま)です。

十二支は、ただの動物の並びではありません。古代の中国や日本では、十二支で方角と時刻をあらわしました。北は「子」、南は「午」。お昼の12時を「正午」と呼ぶのも、午の刻のなごりです。キトラの十二支も、北の子から方角どおりに並んでいました。

キトラの十二支は、衣を着て、手に武器を持っています。中国の隋や唐の十二支像はふつう文官(役人)の姿なので、武人のような姿はめずらしいものです。

ただし、十二支のすべてが確認できるわけではありません。壁の下のほうは、傷みが激しかったためです。四神の館の案内によると、現在確認できているのは子・丑・寅・午・戌・亥の6体です。

高松塚の男女16人とキトラの各壁3体の十二支配置を比較する説明図。人物部分は創作で実物壁画の復元ではない
説明用の模式図です。人物部分は創作イラストで、実物壁画の復元ではありません。衣装・持ち物・像の姿の根拠としては使用していません。十二支の配置は本来の配置を示し、すべての像が確認されているわけではありません。

なぜ、ちがう人たちを描いたのか

四神・太陽と月・星という同じ土台に、一方は着飾った男女を、もう一方は武器を持つ十二支を加えました。石室を組む順番まで同じだった二つのお墓で、なぜ絵が違うのでしょうか。

手がかりのひとつは、絵の「手本」です。二つの古墳の人物や四神は、壁の広さに比べてこぢんまりと描かれ、一つひとつの大きさもそろっています。奈良文化財研究所の石橋茂登さんは、別々の紙に描かれていた絵を写したように見えることから、巻物などで伝わった唐の絵を拡大して描き写したと考えています。手本が違えば、描かれる絵も違ってきます。ただ、二つの古墳の四神は、よく似ていながら細かいところが違い、同じ手本から描いたのかどうかは分かっていません。

東アジアの壁画とのつながりも、ひとつに決めることはできません。かつては朝鮮半島の高句麗の古墳壁画の影響がよく語られました。石橋さんは、時代も図像もかなり違うとして、基本的には唐の絵が手本だったとみています。いっぽう、キトラの天文図のもとになった星図を、高句麗系とみる研究者もいます。十二支の姿についても、次のように説が分かれています。

整理のポイント

確かめられていること
高松塚には男女16人の群像、キトラには十二支が描かれている。どちらにも四神・太陽・月・星がある。石室の造り方はよく似ている

研究者が挙げる手がかり
造られた時期(キトラが先とみる見方が有力)、葬られた人の身分(石室の大きさの差から)、手本にした絵(唐の絵を写したとみる説)

十二支の姿をめぐる説
朝鮮半島の新羅の十二支像に近いとする説、中国にもともと似た像があったとする説、仏教の守り神「十二神将」の影響を見る説がある

分かっていないこと
二つの古墳で描き加えた像が違う理由。決め手はなく、違う像が描かれていることから、違う信仰や違う目的があったとまでは言えない

ここからは編集部の問いです。お墓を造らせた人たちの希望が、絵の選び方に表れていたのでしょうか。そして、キトラの十二支は、眠る人を守るためにいたのでしょうか。それとも、死者の世界と外の世界の境目を守っていたのでしょうか。どれも答えは出ていません。ただ、四神の館で原寸大の石室模型を前にすると、そんな問いが浮かんできます。

高松塚壁画館の入口
高松塚壁画館。模写や石槨模型などを通して壁画の世界を見られます。
キトラ古墳壁画体験館 四神の館の外観
キトラ古墳壁画体験館 四神の館。通常展示は無料で見学できます。
みこ

高松塚壁画館で男女の群像の模写を見てから四神の館でキトラの世界にふれると、四神とともに、まったく違う顔ぶれが描かれていることに驚くはずです。

お墓の天井には、星空が広がっていた

お墓の天井には、星空が広がっていたを紹介するイメージ画像
星や四神は説明用の創作表現です。実物壁画の星の数・位置・星座の形を再現したものではありません。

二つの古墳には、もうひとつ大きな共通点があります。石室の天井に、星空が描かれていたことです。

どちらも、星を丸い金箔であらわし、星と星を赤い線で結んで星座を作っています。けれど、同じ星空でも、描き方は大きく違いました。

星宿図と天文図は何が違う?|二つのお墓に描かれた星空

高松塚の天井に描かれているのは「星宿図(せいしゅくず)」、キトラの天井に描かれているのは「天文図(てんもんず)」です。名前は似ていますが、中身はかなり違います。

星宿図とは?|高松塚の天井

「星宿」は、星のまとまり、つまり星座のことです。古代中国の星座は、いまの私たちが知っている星座とは別のものです。星を線で結んで形を作るところは同じですが、ギリシャ神話の英雄や動物ではなく、皇帝や役所、宮殿など、地上の国のしくみが空に映されています。星座の数もずっと多く、中国の歴史書『漢書』は118の星座を数えています。

二十八宿(にじゅうはっしゅく)は、古代中国で用いられた28の星のまとまりです。お墓の天井に描かれた星の図では、北極の星々とこの二十八宿が、いちばん中心になる要素でした。

高松塚の星宿図は、この大切な部分だけを描いています。中心に北極の星と、それを囲む四輔(しほ)という星座を置き、そのまわりに二十八宿を四角く並べました。大きさは80cm四方ほどです。

本物の空のように星を散らした図ではありません。星空のいちばん大事な骨組みだけを取り出して、整理した図といえます。

天文図とは?|キトラの天井

キトラの天文図は、空の北極を中心にした円い星図です。350を超える星が描かれ、70を超える星座が赤い線で結ばれています。

そして、星座のほかに4つの円が赤い線で描かれていました。

天文図の4つの円

  • 内規(ないき):いちばん内側の円。一年中、地平線に沈まない北の空の星の範囲
  • 赤道(せきどう):地球の赤道を、そのまま空に広げた線
  • 外規(がいき):いちばん外側の円。南の空で、見ることのできる星の限界
  • 黄道(こうどう):太陽が一年かけて星空の中を進む通り道

内規・赤道・外規の3つは、中心が同じ円です。黄道だけは中心がずれた円で描かれています。外規の直径は約61cmです。こうした円をそなえていることから、奈良文化財研究所は、本格的な中国式の星図として現存する世界最古の例と紹介しています。

星宿図と天文図の一番大きな違い

違いを表にまとめます。

表2|高松塚の星宿図とキトラの天文図

比べることキトラの天文図高松塚の星宿図
形円い星図四角く並べた図
描かれた範囲北極の周りから南の空まで北極の星と二十八宿だけ
星と星座350を超える星、70を超える星座中心の星座と28の星座
円や線内規・赤道・外規・黄道の4つの円円はない
大きさ外規の直径 約61cm80cm四方ほど
ひとことで北極を中心に、天を円であらわした図大事な星座を四角く並べた図

いちばん大きな違いは、円があるかどうかです。キトラの天文図は、北極を中心に天を円であらわし、沈まない星の範囲や見える星の限界、太陽の通り道を円で示しています。ただし、星の位置は全体として正確とはいえず、実際の夜空をそのまま再現した図ではありません。

高松塚の星宿図には、円がありません。空の形にこだわらず、大切な星座だけを整然と並べた図です。

高松塚の星宿図の四角い配置と、キトラの天文図の4つの円を比較した模式図
模式図です。実際の星の数・位置・星座の形は再現していません。色分けは説明用です。

天文図は、現代の星図と同じ?

キトラの天文図は精密に見えるため、現代の星図のように、実際の空を正確に写したものだと思われがちです。ここでは、研究者の見方を二つ紹介します。

ひとつは、天文図の「もと」になった星図を探る研究です。国立天文台の相馬充さんらは、星と円の位置から、もとの星図がいつ、どこでの観測にもとづくのかを計算しました。結果は研究者によって分かれますが、どの推定でも、観測した場所は日本ではなく大陸と考えられています。

もうひとつは、天井に描かれた絵そのものに注目する見方です。奈良文化財研究所の石橋茂登さんは、星が大きな金箔であらわされていることや、星の数が実用の星図よりずっと少ないことから、墓室を飾るための絵だと述べています。

前者は「もとの星図」を、後者は「天井の絵」を見ています。墓室を飾るために描かれた絵であっても、そのもとをたどれば、天文観測にもとづく星図があったかもしれない。二つの見方は両立します。

ただ、もとになった星図そのものは見つかっていません。キトラの天文図は、現代の科学的な星図と同じものではないのです。

なぜ、お墓の天井に星を描いたのか

古代の中国の人々は、空と地上はつながっていると考えました。空の北極には天の帝が住み、地上では天子(皇帝)が国を治める。星の動きは、地上の出来事を映すものでした。

研究者は、二つの古墳の天井の星、壁の太陽と月、四方の四神が、合わせて地上を覆う「天の秩序」をあらわしているとみています。小さな石室の中に、空と方角のそろった世界が描かれていたことになります。

ただ、もとになった星図がどこから来たのか、誰が天井に描いたのか、星空に込めた願いが何だったのか。そうした肝心なところは、まだ分かっていません。

みこ

1300年前の人も、同じように夜空を見上げて、星に意味を探していたんですね。そう思うと、天井の金色の星が、ぐっと身近に感じられませんか。

四神は同じなのに、白虎の向きが違う?

四神(しじん)は、東西南北の四方を守る霊獣です。東に青龍(せいりゅう)、南に朱雀(すざく)、西に白虎(びゃっこ)、北に玄武(げんぶ)。

二つの古墳とも、それぞれの方角の壁の中央に描かれていました。ところが、よく見ると違いがあります。

見比べるポイント

  • 朱雀:キトラには残り、高松塚では南の壁の絵が失われている
  • 白虎の向き:キトラの白虎は頭を北に向け、高松塚の白虎は南を向く
  • 大きさ:四神は高松塚のほうが大きく描かれている
  • 共通点:尾を後ろ脚にからめて跳ね上げる姿は、どちらも唐で流行した描き方

キトラ古墳は、四神の4体すべてが残る国内で初めての例です。高松塚古墳では南の壁の絵が失われていますが、もとは朱雀が描かれていたと考えられています。

白虎の向きは、ふつうは高松塚のように南向きです。キトラの白虎は、それとは逆に北を向いています。

なぜ逆向きなのかは、分かっていません。手本にした絵の違いなのか、描いた人の判断なのか。二つの古墳の四神はよく似ていますが、同じ手本から描いたのか、別の手本を使ったのかも分かっていないのです。

仏教が広まった時代なのに、なぜ仏様が描かれていないの?

仏教が広まった時代なのに、なぜ仏様が描かれていないの?を紹介するイメージ画像
創作イラストを含む説明用のイメージ画像です。実物壁画や古代の景観を正確に復元したものではありません。

二つの古墳が造られたころ、飛鳥にはすでに多くのお寺がありました。飛鳥寺や川原寺、豊浦寺、坂田寺。二つの古墳のすぐ近く、檜前にも、檜隈寺(ひのくまでら)や定林寺、呉原寺といったお寺が建てられています。

なかでも檜隈寺の跡は、キトラ古墳から北西へ600mほどの場所にあります。キトラ古墳と檜隈寺は、同じ檜前の小さな盆地の中にありました。

それなのに、壁画には仏様が一人も描かれていません。

壁画にあるのは「天と方角」の世界

描かれているのは、星空、太陽と月、四神、そして十二支です。これらは、四方を霊獣が守る「四神相応(しじんそうおう)」や、世界を陰と陽、木・火・土・金・水で説明する「陰陽五行(いんようごぎょう)」といった、中国から伝わった考え方にもとづいています。

中国・唐の高い身分の人のお墓でも、壁に描くのは四神や星、人物などが基本でした。二つの古墳は、お墓の飾り方として、その流れをくんでいると考えられます。

お寺とお墓は、役割が違っていたのかもしれない

では、葬られた人たちは仏教を信じていなかったのでしょうか。そうとは言えません。

仏様の絵がないことは、仏教を信じていなかった証拠にはなりません。お寺は仏を祀る場所、お墓は天と方角の秩序で死者を包む場所。当時の人々にとって、二つは役割の違うものとして共存していたのかもしれません。

じつはキトラの十二支にも、仏教の影響を見る説があります。武器を持つ姿が、仏教の守り神である十二神将に通じるという考え方です。仏教と古くからの葬り方が、ひとつの石室の中で重なっていた可能性もあるのです。

このころは、葬り方そのものが変わり始めた時代でもありました。歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』は、700年に僧の道昭(どうしょう)が火葬されたと記しています。研究者は、この記事を手がかりに、日本で火葬のお墓が現れたのをこのころとみています。天皇では、持統天皇が初めて火葬されました。

それでも、高松塚とキトラでは、石室に棺を納める葬り方が選ばれています。新しい葬り方が広まり始めた時代に、立派な石室をもつお墓も造られていた。なぜそうした選択がされたのかは、まだ分かっていません。

檜隈寺跡・於美阿志神社の入口
キトラ古墳の北西約600mにある檜隈寺跡。いまは於美阿志神社の境内になっています。

檜隈寺跡については、檜隈寺跡・於美阿志神社の見どころの記事で紹介しています。

二つの古墳が生まれた飛鳥は、どんな時代だった?

二つの古墳が生まれた飛鳥は、どんな時代だった?を紹介するイメージ画像
創作イラストを含む説明用のイメージ画像です。実物壁画や古代の景観を正確に復元したものではありません。

二つの古墳が造られた7世紀の終わりから8世紀の初めは、日本の国の形が大きく変わった時代です。

国の形が大きく変わった半世紀

663年、倭国(のちの日本)は朝鮮半島の白村江(はくそんこう)で、唐と新羅の連合軍に大敗しました。672年には、皇位をめぐる大きな内乱、壬申の乱が起こります。勝利した天武天皇と、その後を継いだ持統天皇のもとで、国を治めるしくみが急速に整えられていきました。

そして694年、飛鳥の北に、日本で初めての本格的な都・藤原京が誕生します。唐の都にならった碁盤の目の都です。

外の世界から学び、国を作り直そうとした時代。高松塚の唐風の人物画や、中国から運ばれてきた鏡と大刀は、そうした時代の空気をよく伝えています。

檜前盆地と、海を渡ってきた人々

二つの古墳がある檜前は、都や大きなお寺が並ぶ地域の南にある、1km四方ほどの小さな盆地です。

ここは、古くから海を渡ってきた人々と深いつながりのある土地でした。5世紀から6世紀の遺跡からは、朝鮮半島の土器の流れをくむ「韓式系土器」や、壁を土で厚く塗りこめた「大壁建物(おおかべたてもの)」が見つかっています。キトラ古墳の西700mほどにある稲村山古墳からは、銀の腕輪やかんざし、炊事道具の小さな模型が出土しました。調査報告書は、こうした品々を、檜前で渡来系の人々が活動していたことを示す資料として重視しています。

飛鳥時代になると、檜前は都の中心ではなく、有力者のお墓や、渡来系の人々が建てたお寺、そして暮らしの場として使われました。檜隈寺は、渡来系の有力な一族・東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺とされています。キトラ古墳の北東2kmほどにある定林寺も東漢氏の一族が建てたとみられ、7世紀の初めには建てられていました。

暮らしの跡も見つかっています。檜隈寺のすぐ近くの遺跡では、大きな柱を並べた塀の跡が見つかり、お寺と関わる一族の屋敷があったと考えられています。近くの遺跡でも建物群が見つかり、いくつかの屋敷があった可能性があります。檜前大田遺跡では、人々が住み続けるなかで、7世紀後半に大壁建物から、柱を地面に立てる掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)へと建て替えられていました。

みこ

檜前は、古墳が造られただけの場所ではありません。お寺を建て、屋敷を構え、暮らしを営む人々がいた土地でした。

注意したいこと

檜前が渡来系の人々とゆかりの深い土地だったことは、発掘で確かめられています。ただし、そのことから、二つの古墳に眠る人や壁画を描いた人の出身を決めることはできません。

藤原宮跡が檜前の北、飛鳥宮跡が北東にあり、高松塚古墳がキトラの北、檜隈寺跡が北西にある位置関係の概念図
位置関係を示す概念図です。縮尺・距離・道路・盆地の境界は再現していません。

二つの古墳を訪ねると、何が見えてくる?

二つの古墳を訪ねると、何が見えてくる?を紹介するイメージ画像
創作イラストを含む説明用のイメージ画像です。実物壁画や古代の景観を正確に復元したものではありません。

ここまで読んで、実際に二つの古墳を見てみたくなったでしょうか。最後に、現地で何が見られるのかを整理します。

いま、現地で見られるもの

まず知っておきたいのは、古墳の中に壁画は残っていないことです。壁画は保存のために取り出され、現地で見られるのは、きれいに整えられた復元の墳丘です。それでも、すぐそばの展示施設で、壁画の世界にふれることができます。

施設見られるもの
キトラ古墳壁画体験館 四神の館原寸大の石室模型、高精細映像
高松塚壁画館壁画の模写や石室の模型。男女の群像・四神・星宿図

壁画の実物を見られるかどうかは、二つの古墳で状況が違います。

実物壁画の見学状況

古墳公開状況見学条件
キトラ古墳四神の館内の保存管理施設で、文化庁が期間を区切って実物を公開原則として事前応募が必要
高松塚古墳修理作業室をガラス越しに見る公開は休止2026年度から新施設ができるまで。壁画館の模写展示とは別

高松塚壁画館で見られるのは、壁画を写しとった模写で、実物ではありません。公開の予定は変わることがあるので、出かける前に文化庁の案内を確かめてください。

開館時間や入館料は、キトラ古墳の見どころと高松塚古墳の見どころの記事でまとめています。

二つを見比べるときのひと工夫

見学のひと工夫

  • 高松塚壁画館では、男女の群像と、天井の四角い星宿図を見る
  • 四神の館では、原寸大の石室模型で、キトラの石室の小ささを実感する
  • 墳丘の前では、大きさの違いを比べる。高松塚の下段は直径約23m、キトラは約13.8m
  • 白虎の向きは、高松塚壁画館で西の壁の白虎の模写を見て、「キトラの白虎は北向き」と比べてみる

キトラから檜隈寺跡を通って、高松塚へ

二つの古墳は、歩いてつなぐことができます。おすすめは、途中で檜隈寺跡に立ち寄る道です。

丘と田畑のあいだを抜けて、古代のお寺の跡を通り、もう一つの壁画古墳へ。1300年前にお墓を造り、お寺を建て、ここで暮らした人々の土地を、自分の足で確かめる道です。

キトラ古墳から檜隈寺跡・於美阿志神社を経て高松塚古墳へ歩く散策導線の概念図
キトラ古墳、檜隈寺跡、高松塚古墳をつなぐ散策導線の概念図です。逆方向でも歩けます。実際の距離や道路形状を示す地図ではありません。徒歩時間は目安です。

道順や所要時間、駅やバスからの行き方は、アクセス記事でくわしく紹介しています。

キトラ古墳へのアクセスを詳しく見る
高松塚古墳へのアクセスを詳しく見る

よくある質問

壁画の発見・ほかの壁画古墳・壁画の保存・国宝の指定・修理後の公開というFAQ五テーマ
FAQの導入用イメージ画像です。創作表現を含み、実物壁画や景観の正確な復元ではありません。
二つの古墳の壁画は、いつ見つかったのですか?

高松塚は1972年3月の発掘調査で壁画が見つかり、一躍注目を集めました。キトラは1983年11月、盗掘の穴から細いカメラ(ファイバースコープ)を入れて調べたところ、北の壁に玄武が見つかり、高松塚に続く極彩色の壁画古墳だと分かりました。

日本には、ほかにもこうした壁画古墳がありますか?

九州などにも、壁画を描いた装飾古墳があります。たとえば福岡県の王塚古墳には、赤・黄・緑・黒・白・灰の6色を使った壁画があります。ただし、高松塚・キトラのように四神や天井の星を組み合わせた壁画は、国内でも特別な例です。文化庁などの報告書も、四神や太陽と月、星などを極彩色で描いた壁画は、この二つしかないと説明しています。なお、石室のつくりがよく似たマルコ山古墳や石のカラト古墳には、壁画は描かれていません。

なぜ壁画を古墳から取り出したのですか?

現地のままでは守りきれなくなったためです。高松塚では、カビなどの被害で壁画の汚れが深刻になり、2005年に石室の石ごと取り出して修理することが決まりました。キトラでも漆喰がはがれ落ちる危険が大きく、2004年から2010年にかけて壁画を取り外しました。

壁画は国宝ですか?

どちらも国宝です。高松塚の壁画は発見の2年後の1974年に、キトラの壁画は2019年に指定されました。古墳そのものも、どちらも国の特別史跡です。

修理を終えた高松塚の壁画は、これからどこで見られるのですか?

2026年刊行の調査報告書や文化庁の資料では、修理後の壁画を新しい施設(高松塚古墳壁画保存管理公開活用施設〈仮称〉)で公開・活用する計画とされ、2029年度までの供用開始を目指しています。これは計画上の目標で、開館日が決まっているわけではありません。それまでのあいだ、修理作業室での壁画の公開は休止されます。最新の情報は、文化庁の案内でご確認ください。

まとめ|二つの古墳の違いから、古代の人々が見えてくる

まとめ|二つの古墳の違いから、古代の人々が見えてくるを紹介するイメージ画像
創作イラストを含む説明用のイメージ画像です。実物壁画や古代の景観を正確に復元したものではありません。

二つの古墳には、四神・太陽と月・星空、そしてよく似た石室の技術という共通点があります。一方で、高松塚の男女群像とキトラの十二支像、星宿図と天文図、石室の規模や残された副葬品には違いがあります。

どちらの古墳も、被葬者は確定していません。誰が葬られ、なぜ異なる絵が描かれたのか。同じ時代に、すぐ近くで造られたお墓に、なぜこうした違いが生まれたのか。その答えは、まだ誰も知りません。

けれど、違いを知ってから墳丘の前に立つと、見え方が変わります。この星空を天井に描いた人がいた。十二支に武器を持たせた人がいた。名前の分からない誰かを、心をこめて葬った人たちがいた。

二つの古墳の違いを知ることは、1300年前の飛鳥に生きた人々の営みを知ることにつながります。 ぜひ、二つの古墳を訪ねて、その違いを自分の目で確かめてみてください。

みこ

墳丘の前に立ったら、少しだけ目を閉じて、天井いっぱいの金色の星を思い浮かべてみてください。小さな墳丘が、急に大きな宇宙に見えてきますよ。

二つの古墳を含む「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産は、こちらで一覧にしています。

飛鳥・藤原の宮都の19構成資産一覧を見る

参考情報・出典

報告書・研究資料

公式案内・展示情報

壁画の公開や展示施設の情報は変わることがあります。最新情報は各公式サイトでご確認ください。

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