中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県明日香村の平田にある小さな古墳です。極彩色壁画で知られる高松塚古墳のすぐ北、国営飛鳥歴史公園「高松塚周辺地区」の中にあり、近鉄飛鳥駅から歩いて向かえます。2026年7月には、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産の一つとして、世界文化遺産への登録が決定しました。
最初に正直にお伝えします。ここには建物も展示施設もなく、石室の中に入れるわけでもありません。現地で見えるのは、木々に覆われた墳丘の高まりと、その前に立つ史跡標や説明板、そして周りの丘の地形です。高松塚古墳を訪ねた人の多くが、名前も知らないまま通り過ぎてしまう——そんな古墳です。
けれども、この小さな古墳は、知れば知るほど特別です。
- 墳丘は、飛鳥時代の天皇陵級の特別な形とされる八角形
- 約90センチ四方の小さな石槨に、火葬した骨を納めた蔵骨器を安置したと考えられている
- 立地・年代・火葬墓であることなどから、文武天皇陵として有力視されている——ただし断定はできない
小さな墳丘に、古墳時代から律令国家へ移り変わる時代の手がかりが重なっています。
この記事では、現地で実際に見えるものと発掘調査で分かったことの違いを整理しながら、八角形墳・小さな石槨・火葬墓という3つの見どころ、文武天皇陵説と宮内庁治定陵の関係、さらに高松塚古墳やキトラ古墳などとあわせた歩き方まで案内します。

中尾山古墳とは——高松塚古墳の近くにある終末期古墳

まずは、中尾山古墳がどんな古墳なのかを整理します。
中尾山古墳は、飛鳥観光の玄関口・近鉄飛鳥駅の東側、国営飛鳥歴史公園「高松塚周辺地区」の中にあります。高松塚古墳からは、すぐ北へ歩いてほんの数分の距離です。
「終末期古墳」という言葉は聞き慣れないかもしれません。古墳といえば、鍵穴形の巨大な前方後円墳を思い浮かべる方が多いと思います。そうした巨大古墳の時代は6世紀の終わりごろに幕を下ろし、7世紀には小さく精巧な古墳が造られるようになります。この、古墳時代のいちばん最後の時期(7世紀〜8世紀初頭ごろ)の古墳を、終末期古墳と呼びます。
高松塚古墳もキトラ古墳も終末期古墳ですが、中尾山古墳はそのなかでも最終段階に位置づけられる古墳です。
地元では古くから知られた存在で、別名「中尾石墓(なかおいしばか)」とも呼ばれ、江戸時代には「中尾塚」「中尾石塚」と呼ばれたと説明されます。石にまつわる名前がついているのは、かつて墳丘の上に石造りの埋葬施設が顔をのぞかせていたためと考えられます。1927年(昭和2年)には国の史跡に指定されました。
次の表で、基本情報をまとめて確認できます。
表A|中尾山古墳の基本情報
| 項目 | 内容 | 補足 |
|---|---|---|
| 名称 | 中尾山古墳 | 別名「中尾石墓」。江戸時代には「中尾塚」「中尾石塚」とも |
| 文化財指定 | 国史跡(1927年〈昭和2年〉指定) | — |
| 世界遺産 | 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産 | 2026年7月26日に登録決定 |
| 墳形 | 三段築成の八角形墳 | 2020年の発掘調査で確定と発表 |
| 規模 | 墳丘の対辺長約19.5メートル。外側に三重の石敷がめぐり、最も外側は対辺約32.5メートル以上と説明される | 数値は2020年調査の発表による |
| 埋葬施設 | 切石10個を組み合わせた横口式石槨。内部は約90センチ四方 | 内部は見学できない(「見どころ2」参照) |
| 性格 | 火葬墓と考えられる | 火葬した骨を納めた器(蔵骨器)を安置したと考えられる |
| 築造時期 | 7世紀末〜8世紀初頭ごろと説明される | 藤原京の時代(694〜710年)と重なる |
| 被葬者 | 未確定。文武天皇の陵である蓋然性が高いと考えられている | 宮内庁治定の文武天皇陵は別の場所(後述) |
| 所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字平田 | 国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区内 |
| 見学 | 公園内の屋外・無料。墳丘の外観を見学する | 開園情報等は公園公式で確認 |
| アクセス | 近鉄飛鳥駅から徒歩約12分 | 高松塚古墳のすぐ北(「現地での歩き方」参照) |
表の見学・アクセス情報は2026年8月7日時点の公式再確認にもとづきます。最新情報は、国営飛鳥歴史公園などの公式情報でご確認ください。
世界遺産との関係も整理しておきます。中尾山古墳は、2026年7月26日、第48回世界遺産委員会で世界文化遺産への登録が決定した「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産の一つです。飛鳥宮跡や藤原宮跡、石舞台古墳、高松塚古墳などとともに、飛鳥時代の宮都のあゆみを伝える19件の資産のなかに数えられています。小さな墳丘ですが、世界遺産の一角を担う古墳なのです。
まず知っておきたいこと——ここは「形と位置」から想像する古墳

中尾山古墳を訪ねる前に、いちばん大切なことを整理しておきます。この場所の見どころは、性質のちがう3つの層に分かれているということです。
次の表は、その3層を「どう受け止めるか」とセットで整理したものです。
表B|中尾山古墳で「見られるもの」3層整理
| 分類 | 内容 | どう見る・どう受け止めるか |
|---|---|---|
| ① いま現地で見えるもの | 木々に覆われた墳丘の高まり、史跡標・説明板、柵と園路、周辺の丘の地形、高松塚古墳との位置関係 | 園路から柵越しに、外から眺める |
| ② 発掘・資料から分かること | 三段築成の八角形墳、三重の石敷、約90センチ四方の精密な石槨、水銀朱、火葬墓 | 現地の風景にこの記事の解説を重ねて「想像」する |
| ③ 説・旧称として味わうこと | 文武天皇陵とする有力な見方、「中尾石墓」の旧称、江戸時代から文武陵とみられてきたとされること | 史実と分けて、研究の歴史や土地の記憶として味わう |
この表で覚えておきたいのは、②の内容——八角形、精密な石槨、水銀朱——が、現地では直接見えないということです。石槨は地中にあり、内部が公開されているわけではありません。
だからこの古墳は、「見る」というより「知ってから、形と位置を頼りに想像する」タイプの史跡です。
手がかりは2つあります。ひとつは形——なぜこの小さな古墳が、天皇陵級の八角形なのか。もうひとつは位置——なぜ高松塚古墳のすぐ近く、飛鳥の南の丘にあるのか。この2つを持って現地に立つと、木々に覆われたただの丘が、まったく違って見えてきます。
みこここは「中を見る」場所ではなく、「形と位置」の2つを持って眺める場所。この記事で仕入れた知識が、そのまま現地での見どころになりますよ。
見どころ1:八角形の墳丘——天皇陵級の特別な形を読む


それでは、見どころを順に案内します。この章では、1つめの手がかりである「形」——八角形の意味を見ていきます。
2020年、八角形墳であることが確定した
中尾山古墳は、1974年の調査で八角形墳の可能性が指摘されていましたが、長くその全体像は確かめられていませんでした。
転機は2020年です。関西大学と明日香村教育委員会の共同発掘調査により、三段に築かれた八角形墳であることが確定したと発表されました。
発表によると、墳丘の対辺長(八角形の向かい合う辺のあいだの距離)は約19.5メートル。墳丘の外側には三重の石敷がめぐり、最も外側の石敷は対辺約32.5メートル以上におよぶと説明されています。
小さな墳丘のまわりを、石敷が幾重にも取り囲む——地味に聞こえるかもしれませんが、これはきちんと「聖域」として設計された墓であることを示すつくりです。




八角形は、天皇陵級の特別な形
なぜ八角形が特別なのでしょうか。飛鳥時代の天皇陵とみられる古墳では、八角形という特別な形が重視されたと説明されています。八角形の墳丘は、飛鳥時代の天皇陵級の特別な形とされるのです。
飛鳥周辺で八角墳とされる古墳を挙げてみると——
- 牽牛子塚古墳(斉明天皇陵とする説が有力)
- 天武・持統天皇陵古墳
- そして、この中尾山古墳
いずれも、天皇やそれに準ずる人物の墓と考えられているものばかりです。2020年の調査で八角形が確定したことは、「中尾山古墳の被葬者は天皇かそれに準ずる立場の人物」という見方を補強する発見と説明されています。ただし、八角形は重要な手がかりの一つであって、それだけで被葬者が決まるわけではありません。
もうひとつ注目したいのは大きさです。天武・持統天皇陵古墳の墳丘は対辺約42メートルと説明されるのに対し、中尾山古墳は約19.5メートル。半分以下です。けれどもこれは「格が低い」ということではなく、時代が進んで墓のかたちが変わったことのあらわれと考えられます。その理由は、次の石槨と火葬の話につながります。



現地で見えるのは、木々に覆われた円い丘。そこで頭の中で「三段の八角形、まわりに三重の石敷」と描き直してみてください。ただの丘が、設計図をもった建造物に見えてきます。
見どころ2:小さく精密な石槨——切石で造られた埋葬施設


2つめの見どころは、墳丘の中に納められた埋葬施設です。現地では見えませんが、この古墳のいちばんの驚きがここにあります。
約90センチ四方の、磨き上げられた石の部屋
中尾山古墳の埋葬施設は、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)と呼ばれるものです。石槨とは、棺や骨を納めるためにつくられた石の部屋のこと。「横口式」は、横に開いた入口から納める形式を指します。高松塚古墳やキトラ古墳の埋葬施設も同じ系統で、この時期の飛鳥で完成した精巧なスタイルです。
中尾山古墳の石槨は、凝灰岩や花崗岩の切石10個を組み合わせて造られています。内部は高さ・幅・奥行とも約90センチと説明されます。畳半分ほどの床に、大人がかがんでやっと入れるくらいの、とても小さな空間です。
しかも2020年の調査などで、壁面は丁寧に磨き上げられ、内部の全面に水銀朱(赤い顔料)が塗られていたことが分かっています。小さいのに、驚くほど手が込んでいるのです。
小ささの意味——棺ではなく「器」を納める部屋
なぜこんなに小さいのでしょうか。答えは床にあります。
床石の中央には約60センチ四方のくぼみがあり、ここに火葬した骨を納めた器(蔵骨器)を安置したと考えられています。つまりこの石槨は、はじめから棺を納めるためではなく、骨壺ひとつを大切に納めるための部屋として設計されたと考えられるのです。
一方で、発表によると、使われた石材は総重量約560トン。築造には延べ約2万人が関わったと推定されています(高松塚古墳の4倍に相当するとされます)。納めるものは小さな器ひとつなのに、注ぎ込まれた労力は桁違い——この「小ささ」と「豪華さ」のギャップこそ、中尾山古墳の被葬者がただものではないことを物語っています。



約90センチ四方は、棺は入らないけれど骨壺ならぴったりの大きさ。「小さい=簡素」ではなく、「小ささ」自体が新しい時代の証拠なんです。


見どころ3:火葬墓としての性格——持統天皇以後の葬送の変化


3つめの見どころは、「火葬」です。骨壺のための石槨——それは、この時代に王の葬られ方が根本から変わったことを意味しています。
火葬は、仏教とともに広まった新しい葬法
古墳時代の王たちは、遺体を棺に納めて埋葬されてきました。巨大な墳丘も石室も、基本的には「棺を納める」ための施設です。
これに対して火葬は、仏教とともに広まった葬法とされます。日本の天皇では、持統天皇が初めて火葬された人物として知られます。702年の暮れに亡くなった持統天皇は火葬され、夫・天武天皇の眠る陵に合葬されたと記されます——この劇的な転換の物語は、天武・持統天皇陵古墳の記事で詳しく紹介しています。
文武天皇——火葬された若き天皇
持統天皇の次に即位したのが、孫にあたる文武天皇(もんむてんのう)です。
文武天皇は、祖母・持統天皇の後見のもと藤原京で政治をとり、701年の大宝律令の完成という、日本の律令国家の総仕上げの時代を担いました。『続日本紀』には、慶雲4年(707)に25歳の若さで亡くなり、火葬ののち「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」に葬られたと記されます。
祖母から孫へ——火葬は一代限りの例外ではなく、天皇の葬法として受け継がれました。そして中尾山古墳の石槨は、まさに火葬の骨壺を納めることを前提に設計された、火葬の時代の天皇陵のひとつの到達点として語られています。
巨大古墳の時代の、静かな終着点
ここで、飛鳥の古墳の流れを思い浮かべてみてください。
巨大な石を積んだ石舞台古墳。壁画に飾られた高松塚古墳・キトラ古墳。八角形の天武・持統天皇陵古墳。そして、骨壺ひとつのための小さな八角形の丘——中尾山古墳。
墳丘はどんどん小さくなり、やがて王の墓は「古墳」というかたち自体を手放していきます。中尾山古墳は、数百年続いた古墳づくりの歴史の、いちばん最後の段階に位置づけられる古墳です。この丘の小ささは、衰えではなく、新しい国家のかたち——律令国家——が完成したことの、静かなしるしなのです。
文武天皇陵説をどう見るか——宮内庁治定と考古学上の見方を分けて理解する


さて、ここまで「文武天皇の陵である蓋然性が高いと考えられている」と繰り返してきました。この章では、その意味を丁寧にほどきます。
実は、地図アプリで「文武天皇陵」と検索すると、中尾山古墳とは別の場所が表示されるのです。
宮内庁治定の文武天皇陵は「別の場所」にある
宮内庁は、明日香村栗原にある「檜隈安古岡上陵」を文武天皇の陵として治定(じじょう=陵墓として定めること)・管理しています。
宮内庁の案内では陵形は「山形」とされ、飛鳥駅から徒歩約16分。高松塚古墳を挟んで、中尾山古墳からは数百メートル離れた場所にあり、拝所から参拝できる陵墓です。地図の「文武天皇陵」はこちらを指しています。
つまり、いま「文武天皇陵」と名のつく場所と、研究者が「文武天皇の陵の可能性が高い」とみる場所が、別々に存在しているのです。


考古学上は「中尾山古墳の蓋然性が高い」とされる
一方、考古学の研究では、中尾山古墳を文武天皇陵とみる見方が有力視されています。明日香村の公式解説も「立地や年代、火葬墓であることなどから文武天皇檜隈安古上陵の蓋然性が高いと考えられている」と説明しています。
根拠は、これまでの章で見てきた手がかりの重なりです。整理すると、次のようになります。
表C|中尾山古墳が文武天皇陵とみられる主な根拠
| 根拠 | 内容 |
|---|---|
| 文献 | 『続日本紀』には、文武天皇の火葬と「檜隈安古岡上陵」への埋葬が記されています。 |
| 形 | 八角形墳は、飛鳥時代の天皇陵級の特別な形とされます。 |
| 年代 | 築造は7世紀末〜8世紀初頭ごろで、文武天皇の没年(707年)と重なります。 |
| 構造 | 石槨は、火葬骨の蔵骨器を納めるための設計と考えられます。 |
| 研究の歴史 | 江戸時代から、文武天皇の陵とみる見方があったと紹介されています。 |
ひとつひとつは間接的な手がかりです。けれども、それらがみな同じ方向を指しており、2020年に八角形が確定したことで、この見方はさらに補強されたと説明されています。
「断定しない」が、いちばん誠実な答え
それでも、この記事は「中尾山古墳=文武天皇陵」とは書きません。骨や墓誌が出土して被葬者が確認されたわけではなく、宮内庁の治定も変更されていないからです。
ニュースの見出しでは「文武天皇陵と確定的に」といった強い表現を目にすることがあります。しかし公式の説明は「蓋然性が高い」——つまり「その可能性がとても高いと考えられる」までです。
現地では、ぜひ両方の場所を歩いてみてください。治定された陵で静かに手を合わせ、中尾山古墳で発掘が明らかにした事実を思い浮かべる。「治定」と「研究上の見方」という、立場の異なるふたつの整理が並んでいる状態を、どちらも尊重しながらそのまま味わう——それが、飛鳥の陵墓めぐりのいちばん深い楽しみ方です。



「文武天皇陵と確定」というニュース見出しを見た方へ。公式の表現は「蓋然性が高いと考えられている」で、宮内庁の治定も変わっていません。「確定」と「有力」のあいだの距離感ごと楽しむのが、終末期古墳めぐりのコツです。


天武・持統天皇陵古墳、高松塚古墳、キトラ古墳とのつながり


中尾山古墳の面白さは、単体では完結しません。周辺の古墳とつなげて見たとき、飛鳥の「終わりの時代」がひとつの物語になります。
次の表は、飛鳥駅南側エリアを中心とした終末期古墳の「見どころの型」を見比べるものです。
表D|飛鳥の八角墳・終末期古墳くらべ
| 古墳 | 時期・形/見どころ |
|---|---|
| 牽牛子塚古墳 | 7世紀後半ごろ/八角墳(復元整備済み) 八角形の墳丘を外から見て体感できる。斉明天皇(皇極天皇)と間人皇女の合葬墓とする説が有力とされる |
| 天武・持統 | 7世紀後半/八角形墳と説明される(宮内庁の案内では円丘) 拝所から参拝する陵墓。合葬と、持統天皇の火葬(天皇初)——葬送の転換点 |
| 中尾山古墳 | 7世紀末〜8世紀初頭/三段築成の八角形墳(2020年確定) 火葬墓。文武天皇陵とする見方が有力視される。墳丘外観から「火葬の時代の到達点」を想像する |
| 高松塚古墳・ | 7世紀後半〜8世紀初/円墳 極彩色壁画。天皇陵ではない有力者の墓として語られる |
この表から、2つの「つながり」が読み取れます。
ひとつは、八角墳と火葬の系譜です。牽牛子塚古墳(斉明天皇の説)から天武・持統天皇陵古墳へと続く八角墳の系譜。そして持統天皇に始まった天皇の火葬。中尾山古墳は、この2つの流れが合流した先にあります。
天武・持統天皇陵では棺と骨壺がひとつの陵に同居していました。中尾山古墳では、はじめから骨壺のためだけの陵として設計されたと考えられる——祖母(持統天皇)の代に始まった新しい葬法が、孫(文武天皇)の代でひとつの到達点を迎えた、と重ねて見ることができます。
もうひとつは、「形」の使い分けです。同じ時期・同じエリアの高松塚古墳・キトラ古墳は、精巧な壁画をもちながら墳形は円墳で、天皇ではない有力者の墓として語られます。すぐ隣に並ぶ円墳と八角墳——この「形の違い」こそ、八角形が特別な身分の象徴だったことを実感できる、飛鳥駅南側エリアならではの見どころです。



見比べる順序のコツ:牽牛子塚古墳で八角形を「見て」覚え、天武・持統天皇陵で「想像」に慣れ、中尾山古墳で「時代の終わり」を感じる。高松塚・キトラの円墳を挟むと、八角形の特別さが際立ちますよ。
現地での歩き方——飛鳥駅・高松塚古墳からの回遊ルート


ここからは実用情報です。交通・開園などの変動情報は2026年8月7日時点の公式再確認にもとづきます。お出かけ前に最新の公式情報をご確認ください。
開園情報・交通などは変わることがあります。お出かけ前に、国営飛鳥歴史公園などの最新の公式情報をご確認ください。
中尾山古墳へのアクセス
表E|中尾山古墳へのアクセス・見学情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 鉄道 | 近鉄「飛鳥駅」から徒歩約12分と案内されています。 バス停「高松塚」からは徒歩3分と案内されています。 |
| 駐車場 | 高松塚周辺地区駐車場は無料です。 ただし公園公式では、国営飛鳥歴史公園館リニューアル工事に伴い、2026年9月1日から同駐車場を利用休止すると案内されています。 |
| 最新確認 | 駐車場の台数・利用時間・代替案内などは変わることがあります。 お出かけ前に、公園公式で最新情報をご確認ください。 |
| 問い合わせ | 飛鳥管理センター(0744-54-2441)など。 |



中尾山古墳は屋外から無料で見学できます。見られるのは墳丘の外観です。園路や開園情報は、お出かけ前に公園公式で確認してくださいね。
園路は整備されており、高松塚古墳側から案内表示をたどって歩けます。墳丘のまわりには柵があり、園路から柵越しに外観を眺める見学スタイルです。




おすすめ回遊ルート——「古墳時代の終わり」をたどる
中尾山古墳は、飛鳥駅南側の終末期古墳めぐりの結節点にあります。次の表で、周辺スポットとの位置関係をつかんでください。
表F|周辺スポットとの位置関係
| スポット | 中尾山古墳との関係 | ひとこと |
|---|---|---|
| 高松塚古墳 | すぐ南(同じ高松塚周辺地区内) | 極彩色壁画の円墳。壁画館とセットで |
| 文武天皇陵(治定・檜隈安古岡上陵) | 高松塚を挟んで南側 | 宮内庁治定の陵墓。拝所から参拝できる |
| 天武・持統天皇陵古墳 | 北の野口方面へ徒歩圏 | 八角形の合葬陵。「火葬の始まり」を見る |
| キトラ古墳 | 南へ足を延ばして | 四神の壁画。「四神の館」で学べる |
| 檜隈寺跡・於美阿志神社 | 南西へ徒歩圏 | 渡来系氏族・東漢氏ゆかりの寺跡 |
| 飛鳥中心部(飛鳥宮跡・飛鳥寺方面) | 東〜北東へ | 飛鳥時代の中心エリア |
この表をもとにしたおすすめは、飛鳥駅→高松塚古墳(壁画館)→中尾山古墳→天武・持統天皇陵古墳という「古墳時代の終わり」をたどるルートです。
時間があれば、治定の文武天皇陵に参拝し、南のキトラ古墳・檜隈寺跡へ。さらに飛鳥中心部の飛鳥宮跡の見どころや飛鳥寺の見どころとあわせれば、飛鳥の始まりから終わりまでがひとつの物語になります。
見学の際のお願いです。中尾山古墳は国の史跡であり、公園として大切に守られている場所です。柵や表示に従い、墳丘や石敷を傷めないように見学してください。周辺は集落と生活道路でもあります。



国史跡・公園内です。柵やロープ、現地の表示に従って、墳丘を傷めない見学を。周辺は暮らしの場でもあるので、道いっぱいに広がらない・大声を出さないなどの配慮もお忘れなく。






中尾山古墳の見どころに関するよくある質問


最後に、中尾山古墳についてよくある質問をまとめました。訪問前の疑問解消にお使いください。
被葬者は特定されていません。八角形の墳丘や精密な石槨から「天皇かそれに準ずる立場の人物」と考えられています。そのうえで、立地や年代、火葬墓であることなどから、文武天皇の陵である蓋然性が高いと考えられています。
断定はできません。考古学の研究では文武天皇陵とする見方が有力視されています。ただし、骨や墓誌が出土して被葬者が確認されたわけではなく、公式の説明も「蓋然性が高い」という表現にとどまります。ニュース見出しの「確定」といった表現とは区別して受け止めるのがおすすめです。
別の場所です。宮内庁が文武天皇陵(檜隈安古岡上陵)として治定・管理しているのは明日香村栗原にある陵墓で、高松塚古墳を挟んで中尾山古墳から数百メートル離れています。治定は現在も変更されておらず、拝所から参拝できます。
入れません。埋葬施設(横口式石槨)は地中にあり、内部を見学できる場所ではありません。現地で見学できるのは墳丘の外観です。柵や表示に従って見学してください。
歩いて行けます。中尾山古墳は高松塚古墳のすぐ北で、同じ国営飛鳥歴史公園「高松塚周辺地区」の中にあります。
近鉄飛鳥駅から徒歩約12分と案内されています。まず高松塚周辺地区へ入り、高松塚古墳から北へ歩くルートが分かりやすい道順です。
墳丘の外観を眺める史跡のため、見学そのものは短時間です。ただ、この記事で紹介した「形と位置」の手がかりを思い浮かべながらゆっくり眺めたり、高松塚古墳・壁画館とあわせて巡ったりするなら、エリア全体で余裕をもった時間配分がおすすめです。
回れます。高松塚古墳は同じ地区内のすぐ南、キトラ古墳は南へ足を延ばした「キトラ古墳周辺地区」にあります。飛鳥駅→高松塚→中尾山→天武・持統天皇陵古墳とたどり、キトラ古墳・檜隈寺跡方面へ続けるルートがおすすめです(「現地での歩き方」参照)。
「形と位置」の2つです。木々に覆われた丘を、頭の中で「三段の八角形、まわりに三重の石敷」に描き直すこと。そして、すぐ南の高松塚古墳(円墳)、北の天武・持統天皇陵古墳、南の治定文武天皇陵との位置関係を重ねること。この2つで、小さな丘が「古墳時代の最終章」に見えてきます。
まとめ:中尾山古墳は、藤原京の終わりを静かに感じる場所


中尾山古墳の見どころを、あらためて整理します。
- 中尾山古墳(明日香村平田)は、高松塚古墳のすぐ北にある終末期古墳。国史跡で、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産の一つです。別名「中尾石墓」とも呼ばれてきました。
- 2020年の関西大学・明日香村教育委員会の調査で、三段築成の八角形墳(墳丘対辺約19.5m・三重の石敷)であることが確定したと発表されました。八角形は、飛鳥時代の天皇陵級の特別な形とされます。
- 埋葬施設は、切石10個を組み合わせた約90センチ四方の横口式石槨。内部は磨き上げられ全面に水銀朱が塗られ、床の凹みに火葬した骨の蔵骨器を安置したと考えられています。
- 持統天皇に始まった天皇の火葬を受け継いだ、火葬の時代の天皇陵のひとつの到達点として語られ、文武天皇の陵である蓋然性が高いと考えられています——ただし、宮内庁治定の文武天皇陵(檜隈安古岡上陵・栗原)は別の場所にあり、断定はできません。
- 現地で見学できるのは墳丘の外観です。高松塚古墳・天武・持統天皇陵古墳・キトラ古墳とあわせて歩くと、「古墳時代の終わり」がひとつの物語として立ち上がります。
- 現地で見えるのは、木々に囲まれた墳丘の高まりと史跡標・説明板です。八角形や石槨そのものは、写真や外観だけで直接確認するものではありません。
- 発掘調査では、八角形墳・三段築成・小さな石槨・火葬墓といった特徴が確認され、文武天皇陵説が有力視されています。
- 宮内庁治定の文武天皇陵は別地点にあり、中尾山古墳と同一視して断定しないことが大切です。
- 高松塚古墳、天武・持統天皇陵古墳、キトラ古墳とあわせて歩くと、古墳時代の終わりと律令国家の成立が立体的に見えてきます。
巨大な前方後円墳から始まった古墳の歴史は、藤原京の南の丘の、骨壺ひとつを納める小さな八角形の墳丘で、静かに最終章を迎えます。その先にあるのは、平城京と、古墳という墓制から次第に離れていく律令国家の時代——中尾山古墳の前に立ったら、この丘が「終わり」であると同時に、新しい日本の「始まり」でもあることを、思い浮かべてみてください。
お出かけの際は、開園情報・交通などの最新情報を、公式情報でご確認ください。
- 明日香村公式「中尾山古墳」
- 奈良県歴史文化資源データベース「中尾山古墳」
- 関西大学プレスリリース No.43(2020-11-27)
- 文化庁 国指定文化財等データベース「中尾山古墳」
- 宮内庁「文武天皇 檜隈安古岡上陵」
- 国営飛鳥歴史公園
- 古都飛鳥保存財団「中尾山古墳」
開園情報・交通・駐車場などの変動情報は、2026年8月7日に公式情報を再確認しました。公開直前に再度、最新の公式情報で確認します。
