本薬師寺跡(もとやくしじあと)は、奈良県橿原市城殿町にある古代寺院の跡です。いまの奈良市西ノ京に立つ薬師寺と深くつながる寺として説明される、「藤原京の薬師寺」の跡にあたります。
この寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って発願したと伝えられます。飛鳥時代を代表する国家寺院で、2026年7月には世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつとして登録されました。
先に結論
本薬師寺跡は、金堂跡の礎石と東西二つの塔跡を手がかりに、藤原京の国家寺院を「土台から」想像して楽しむ史跡です。現地に当時の建物は残っていませんが、「建物はないのに、土台は見える」——想像の手がかりがはっきりした場所です。
この記事でわかること
- 現地で見るべき金堂跡の礎石と東西の塔跡
- 奈良市・西ノ京の薬師寺との関係
- アクセス・駐車場・見学時の注意
まずは、現地の風景から見てみましょう。

建物が残らない史跡の、いまの姿です。この風景のどこに何を見ればよいのかを、この記事で順番に案内します。
訪問前に確認
- 現地は住宅地と農地の中。お宅の庭先や畑には立ち入らず、道路など通行できる場所から見学しましょう
- 路上駐車は避け、公式に案内されている駐車場か公共交通を利用しましょう
- 見学まわりの状況は変わることがあります。お出かけ前に橿原市の公式情報をご確認ください
結論:本薬師寺跡は、礎石と双塔跡から「藤原京の薬師寺」を想像する史跡

冒頭でお伝えした結論を、現地での歩き方に置きかえて整理します。
飛鳥時代の建物は残っていません。ただし、碑と土壇だけの寺院跡とは違い、ここでは礎石が実際に見えます。
お堂や塔が「どこに・どんな配置で」建っていたか。それを自分の足で確かめられるのが、この史跡の楽しさです。
現地を歩くときの手がかりは、次の3つです。
- 金堂跡の礎石:本尊・薬師如来をまつった金堂の位置と大きさを教えてくれる、いちばん確かな目印
- 東西二つの塔跡(土壇と心礎):金堂の前に塔が二つ並ぶ「薬師寺式」伽藍のいちばんの証拠
- 畝傍山(うねびやま)の姿:本薬師寺跡が藤原京のどのあたりに置かれたのかを考える手がかり
この3つを知ってから立つと、集落と田園の中に残る礎石や土壇が「藤原京の薬師寺」へとつながって見えてきます。
みこ建物は残っていませんが、金堂の礎石と二つの塔の跡は見えます。現地の説明板や案内表示で位置関係を確かめながら、「土台から想像する」つもりで歩いてみましょう。
それでは、この史跡の基本情報から順に見ていきます。
本薬師寺跡とは——藤原京に建てられた薬師寺の跡


本薬師寺跡は、奈良県橿原市城殿町にある飛鳥時代の寺院跡です。国の特別史跡に指定されています。
特別史跡は、史跡の中でも学術上の価値がとくに高いものとして指定される文化財です。
「本薬師寺」という名前は、少し不思議に感じるかもしれません。これは、平城京(奈良市西ノ京)の薬師寺と区別するために、後の時代につけられた呼び名と説明されています。建てられた当時の名前は、シンプルに「薬師寺」でした。
表A|本薬師寺跡の基本情報(2026年8月6日時点)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称・読み | 本薬師寺跡(もとやくしじあと) |
| 所在地 | 奈良県橿原市城殿町(藤原京の右京八条三坊にあたる。畝傍山の東南方向) |
| 文化財指定 | 国の特別史跡 |
| 世界遺産 | 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産 |
| 見られるもの | 金堂跡の礎石、東西両塔の土壇と心礎。説明板・史跡標柱あり(古代の建物は残らない) |
| 最寄り駅 | 近鉄畝傍御陵前駅から徒歩約9分 |
| 駐車場 | 市公式案内の周辺駐車場を利用(詳細はアクセス章) |
| 見学 | 屋外史跡。住宅地・農地に配慮 |
文化財・世界遺産の補足
- 1921年3月3日に史跡、1952年3月29日に特別史跡へ指定
- 指定範囲は金堂跡・東西両塔跡・中門跡と回廊の一部
- 世界遺産登録は2026年7月26日、登録基準は(ii)(iii)
- 情報は2026年8月6日時点。公開前に公式情報で最終確認
世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」は、飛鳥から藤原京へと日本の国家が形づくられた時代を伝える19の構成資産からなり、2026年7月26日の世界遺産委員会で登録が決定しました。本薬師寺跡は、その構成資産のひとつです。
世界遺産として価値の中心となるのは、金堂跡や東西塔跡などに残る古代寺院の考古学的遺構です。現地にある現在の小堂と、古代の本薬師寺の建物を混同しないようにしましょう。
現地でまず知っておきたいこと——「いま見えるもの」「発掘で分かること」「史料・解釈」を分ける


本薬師寺跡を訪ねる前に、いちばん大切なことを整理しておきます。この史跡の見どころは、性質のちがう3つの層に分かれているということです。
本薬師寺跡で見分けたい3つの層
- いま現地で見えるもの:金堂跡の礎石、東西両塔の土壇と心礎、説明板・史跡標柱、畝傍山を望む景観、集落と田園の中の立地。
- 発掘・資料から分かること:藤原京右京八条三坊の寺域、中門・金堂・講堂と東西両塔の薬師寺式伽藍、二十数次におよぶ発掘調査、南門跡の確認。
- 史料・解釈として慎重に扱うこと:天武・持統の発願と完成の経緯、平城京の薬師寺との関係。断定せず、「伝えられること」と「有力な見方」を分けて受け止める。
この整理を頭に入れておくと、「お寺が見られると思っていたのに」というすれ違いを防げます。本薬師寺跡は屋外の史跡で、拝観受付や展示施設としての公式案内は確認できていません。
なお、金堂跡の基壇上には、地元で管理される医王院(いおういん)という小さなお堂が法灯を受け継いでいると紹介されています(奈良県の解説による)。観光向けの拝観施設ではないため、静かに見守りましょう。



まず現地で見える遺構を確認し、そのあと発掘成果と歴史を重ねると、史跡の姿を理解しやすくなりますよ。
では、1つめの層——いま現地で見えるものから歩いていきましょう。
見どころ①:いま現地で見えるもの——金堂跡の礎石・東西両塔の土壇と心礎・畝傍山の景観


それでは、現地の見どころを案内します。現地には橿原市教育委員会の説明板や史跡の標柱が設置されているので、初めてでも位置をつかみやすいはずです。
金堂跡の礎石——お堂の土台を教えてくれる石
まずは金堂跡へ。金堂は、本尊の薬師如来をまつった寺の中心のお堂です。
緑の中に、大きな石が点在しています。


写真に写る大きな石が、お堂の柱を支えた礎石です。基壇の上には、先ほど触れた医王院の小堂が建っています。
礎石の一部は民家の敷地内にあると説明されています。お宅の敷地には立ち入らず、現地の見学ルートの案内に沿って、道路など通行できる場所から眺めましょう。
東塔跡・西塔跡の土壇と心礎——双塔がここに建っていた
本薬師寺跡のいちばんの見どころが、東西二つの塔跡です。
金堂跡の南側、田の中に東塔跡と西塔跡の土壇(どだん。建物の土台だった土の高まり)が東西に並んで残り、塔の心礎も残されています。
心礎は、塔の中心を貫く柱(心柱)を受けとめた、ひときわ大きな礎石のこと。現地の説明板や案内表示で東西の位置関係を確かめると、金堂の前に二つの塔が並ぶ伽藍の構成を想像しやすくなります。



心礎(しんそ)は、塔の中心柱を受けた大きな礎石のこと。東西二つの塔跡それぞれに残ると説明されており、双塔伽藍のいちばんの手がかりです。
畝傍山を望む景観——藤原京の西南を実感する
最後の手がかりは、畝傍山です。橿原市の公式解説は、本薬師寺跡について「その背景には畝傍山が望めます」と説明しています。
畝傍山は大和三山の一つ。藤原京は、畝傍山・耳成山・香具山の三つの山に抱かれるように造られた都でした。
塔跡のそばから畝傍山の方角を眺めて、「この寺は、三山に囲まれた都の一角に建っていた」と思い描いてみてください。畝傍山を手がかりにすると、本薬師寺跡が藤原京の西南側に置かれた寺であることを、現地の風景の中で考えやすくなります。
ここまでが「いま見えるもの」。次は、目には見えない層——発掘が明かした古代の姿です。
見どころ②:発掘が明かした藤原京の薬師寺——双塔式伽藍と国家寺院の姿


つづいて、発掘・資料から分かる本薬師寺の姿です。本薬師寺跡では、これまで二十数次におよぶ発掘調査が行われてきました。
中門・金堂・講堂と、二つの塔——「薬師寺式」伽藍配置
発掘と研究によれば、本薬師寺の伽藍は、南から中門・金堂・講堂が一直線に並び、金堂と中門のあいだに東塔・西塔が東西に並ぶ配置でした。この「金堂の前に塔が二つ」という形は、この寺を代表例として薬師寺式伽藍配置と呼ばれています。
飛鳥の寺院は、それぞれに伽藍の「型」をもっています。
- 飛鳥寺:塔を三つの金堂が囲む
- 川原寺:塔をはさんで東西に金堂が並ぶ
- 山田寺:南北一直線に並ぶ
いずれも「塔は一本」でした。本薬師寺の双塔式はその流れに現れた新しい型で、世界遺産の説明では新羅(しらぎ。朝鮮半島の国)との交流を示すとも説明されています。



金堂の前に塔が二つ並ぶ形が「薬師寺式」。西ノ京の薬師寺に立つ東塔(国宝)を思い浮かべると、ここに並んでいた二つの塔の姿を想像しやすくなりますよ。
藤原京右京八条三坊——都市計画に組み込まれた国家寺院
本薬師寺のもう一つの顔は、藤原京という都市の一部だったことです。
藤原京は、694年に飛鳥から遷った日本で最初の本格的な都城で、碁盤の目状の道路(条坊)で区画されていました。本薬師寺の寺域は、この条坊の右京八条三坊を占めていたとされています。都市の設計図に、最初から描き込まれた寺だったのです。
ここで思い出したいのが、同じ藤原京のもう一つの大寺・大官大寺(だいかんだいじ)です。藤原宮をはさんで、東南に大官大寺、西南に本薬師寺。天皇ゆかりの二つの大寺が、宮の左右に翼を広げるように配置されていました。
「藤原京の二大官寺」をセットで訪ねると、都と寺がひとつの計画で造られた時代のスケールが見えてきます。
発掘調査はいまも続く——南門跡の確認
本薬師寺跡の調査は、現在も続いています。橿原市によれば、令和5年度(2023年度)の発掘調査で、本薬師寺の南門の南東隅が非常に良好な状態で残されていることが確認されました。
特別史跡に指定されて100年あまり——それでもまだ、新しい発見が続いています。いま見えている礎石や土壇の下に、まだ知られていない藤原京の薬師寺が眠っていると考えると、田園の中に残る史跡の見え方も変わってきます。
天武天皇と持統天皇——本薬師寺に込められた祈り


ここからは、この寺の物語の層です。文献にもとづく内容のため、「〜と伝えられます」という距離感で読んでいただくのがおすすめです。
皇后の病気平癒を祈って——天武9年(680)の発願
本薬師寺は、天武9年(680)、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気が治ることを祈って発願したと伝えられています。
薬師如来は「医薬の仏」。国家の大寺でありながら、その出発点には、病に伏せる皇后のための祈りがあったと語り継がれています。
天武天皇は、寺の完成を見ることなく世を去りました。その後、皇后は持統天皇として即位し、造営は次の時代へ引き継がれます。
持統天皇が受け継いだ寺——本尊の開眼から完成へ
持統天皇の時代、寺の造営は進みます。697年には本尊・薬師如来の開眼が行われ、文武2年(698)にはほぼ完成して僧が住まわされたと伝えられています。
本薬師寺・造営のあゆみ(伝えられる経緯)
- 天武9年(680):天武天皇が皇后の病気平癒を祈って発願
- 697年:本尊・薬師如来の開眼
- 文武2年(698):ほぼ完成し、僧が住まわされる
発願から完成まで、およそ20年。本薬師寺は、天武天皇の発願から持統天皇の時代の本尊開眼・完成へと、二代の天皇にまたがって造営が進んだ国家寺院として理解できます。
なお、飛鳥では、飛鳥寺・大官大寺・薬師寺(本薬師寺)・川原寺をあわせて「飛鳥四大寺」と数えられることが多くあります(数え方は史料により差があります)。その一角を占めた本薬師寺は、藤原京の時代を代表する国家寺院でした。
奈良市の薬師寺とどう関係するのか——「移築」と言い切れない理由


多くの方がいちばん気になるのがこの問いでしょう。「本薬師寺と、奈良市西ノ京の薬師寺は、どういう関係なの?」——実はこの問いこそ、本薬師寺跡のいちばん知的な見どころです。
藤原京の薬師寺・本薬師寺跡・西ノ京の薬師寺を整理
まず、呼び名を整理しましょう。藤原京に建てられた寺、その跡としての本薬師寺跡、現在も奈良市西ノ京に続く薬師寺は、名前が近いぶん混同しやすいポイントです。
表C|名称と現在の姿の違い(2026年8月6日時点)
| 呼び方 | どんな存在か |
|---|---|
| 藤原京の薬師寺 | 天武・持統天皇が藤原京に建てた寺そのもの。当時の名前は「薬師寺」。この記事の主役 |
| 本薬師寺跡 | その跡(橿原市城殿町)。金堂跡の礎石・東西両塔の土壇と心礎が残る。「本(もと)薬師寺」は平城京の薬師寺と区別する後世の呼び名と説明される |
| 西ノ京の薬師寺 | 奈良市西ノ京町で現在も続く法相宗大本山。国宝の東塔ほか。参拝情報は薬師寺公式サイトへ |
かつての「移築説」——そのまま移されたという理解
かつては、藤原京の薬師寺が、平城京へそのまま移されたと考えられていました。710年の平城京遷都にともない、伽藍ごと西ノ京へ引っ越した——という理解です。
西ノ京の薬師寺の伽藍配置が本薬師寺とよく似ていることもあり、「移築」という説明は長く親しまれてきました。
現在有力な「別造説」——発掘が示したこと
しかし現在は、発掘調査などをもとに、藤原京の本薬師寺と平城京の薬師寺は別々に造られたという説が有力とされています。そして、平城京遷都後も、本薬師寺の建物は藤原京の地に残っていた可能性が高いと考えられています。
奈良県の解説は、本薬師寺の伽藍が平安時代まで維持されていたと記しています。
つまり、新しい都の薬師寺が造られたあとも、もとの都の薬師寺の建物がしばらく残っていた可能性があるのです。どちらか一方だけが「本物」なのではなく、二つの薬師寺それぞれに歴史がある。この見方を知ってから現地に立つと、礎石と土壇の意味がぐっと深くなります。



現在は、発掘調査などをもとに、藤原京の本薬師寺と平城京の薬師寺は別々に造られたという説が有力とされています。現地では、創建地に残る礎石と土壇を手がかりに見ていきましょう。
二つの薬師寺を訪ねる意味——寺は続き、伽藍は残った
寺としての薬師寺は、平城京へ遷りました。西ノ京の薬師寺は法灯を守り続け、創建当時から唯一現存する東塔(国宝)をはじめとする伽藍とともに、現在も参拝できる現役の寺院です。
一方、藤原京の伽藍——本薬師寺は、平安時代まで維持されたとされ、やがて歴史の中で姿を消しました。いまに残るのが、金堂跡の礎石と東西両塔の土壇・心礎です。
西ノ京で「建っている薬師寺」を見て、橿原で「土台から想像する薬師寺」を歩く。二つをあわせて訪ねると、飛鳥・藤原から奈良へと都が移っていく時代の物語を、立体的に体感できます。
アクセス・見学の注意点・周辺の巡り方


最後に、実用情報です。変動情報は2026年8月6日時点の確認です。お出かけ前に最新の公式情報をご確認ください。
本薬師寺跡へのアクセス
アクセス・見学情報(2026年8月6日時点)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 電車 | 近鉄橿原線「畝傍御陵前(うねびごりょうまえ)駅」から徒歩約9分。近鉄「橿原神宮前駅」から徒歩約20分(橿原市の案内) |
| バス | 橿原市コミュニティバス「飛騨町」下車・徒歩約12分。運行日・便数・現行のルートは、お出かけ前に橿原市の公式情報で確認 |
| 有料駐車場 | 橿原市営畝傍御陵前駅東駐車場(5:00〜24:30・徒歩約10分。橿原市公式マップの案内) |
| 無料駐車場 | 藤原宮跡H駐車場(8:30〜17:00・徒歩約11分。橿原市公式マップの案内) |
| トイレ | 多目的トイレは、橿原市営畝傍御陵前駅東駐車場にある |
| 見学時の注意 | 屋外の史跡で、拝観受付や有料施設としての公式案内は確認できていない。現地の説明板や見学ルートの案内表示に従う |
| 足元・暑さ対策 | 足元は土や砂利、草地の場所がある。歩きやすい靴で、夏は暑さ対策も忘れずに |
本薬師寺跡の周辺は住宅地・農地に接し、道幅の狭い生活道路があります。路上駐車は避け、公式に案内されている駐車場や公共交通を利用しましょう。
見学マナー——生活の場と隣り合う史跡


本薬師寺跡は、住宅や農地のすぐそばにあります。お宅の庭先・畑・畦道には立ち入らず、地域の暮らしや通行の妨げにならないよう配慮して見学しましょう。
周辺の巡り方——「藤原京の宮と二大官寺」めぐり
本薬師寺跡は、藤原宮跡・大官大寺跡とあわせて巡ると、藤原京という都市のスケールが体感できます。
周辺回遊の候補は、次のように整理できます。
- 藤原宮跡:藤原京の中心。大極殿跡と季節の花で知られ、「宮と寺」をセットで想像しやすい場所です。
- 大官大寺跡:同じ藤原京内のもう一つの大寺。水田の中の碑と土壇を、本薬師寺跡と対で歩けます。
- 畝傍山:大和三山の一つ。本薬師寺跡から見える地形の手がかりとして意識したい山です。
- 橿原市藤原京資料室:藤原京の復元模型などで、現地を歩く前後の理解を補えます。開館情報は公式で確認してください。
おすすめは、藤原宮跡→本薬師寺跡→大官大寺跡(またはその逆)と、藤原京の「宮と二つの大寺」をたどるルートです。藤原宮跡は藤原宮跡の見どころで、大官大寺跡は大官大寺跡の見どころでくわしく紹介しています。
飛鳥中心部までは、飛鳥寺の見どころ・飛鳥宮跡の見どころをあわせてどうぞ。「飛鳥の宮と寺」と「藤原京の宮と寺」は、時間と移動手段に合わせて組み合わせて巡るのがおすすめです。



花の植栽や見学まわりの状況は変わることがあります。出かける前に橿原市の公式情報で最新を確認し、現地では庭先や畑に入らず、道路から静かに見学を。
本薬師寺跡に関するよくある質問


金堂跡の礎石、東西二つの塔跡の土壇と心礎、そして畝傍山を望む景観が見られます。古代の建物は残っていません。
「金堂の前に塔が二つ並ぶ」薬師寺式伽藍の土台を、自分の足で確かめるタイプの史跡です。
飛鳥時代の建物は残っていません。金堂跡の基壇上には、地元で管理される医王院という小さなお堂が法灯を受け継いでいると紹介されていますが、観光向けの拝観施設ではありません。
寺としての薬師寺は平城京へ遷り、西ノ京の薬師寺として現在まで続いています。本薬師寺跡は、その藤原京時代の寺の跡です。
「本薬師寺」という名前は、平城京の薬師寺と区別するための後世の呼び名と説明されています。
かつてはそのまま移されたと考えられていましたが、現在は、発掘調査などをもとに、別々に造られたという説が有力とされています。
平城京遷都後も本薬師寺の建物は藤原京の地に残っていた可能性が高いと考えられており、「二つの薬師寺が並び立った時期があったかもしれない」というのが、この史跡の面白いところです。
天武9年(680)に天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って発願し、持統天皇の時代に本尊の開眼を経て、文武2年(698)にほぼ完成したと伝えられています。
二代の天皇にまたがる造営経緯として読むと、国家寺院としての位置づけが見えやすくなります。
かつてホテイアオイの花で知られた時期がありますが、現在の植栽・開花状況は、訪問前に橿原市の公式情報でご確認ください。
近鉄橿原線・畝傍御陵前駅から徒歩約9分と案内されています。周辺駐車場は、橿原市営畝傍御陵前駅東駐車場(有料・5:00〜24:30・徒歩約10分)と藤原宮跡H駐車場(無料・8:30〜17:00・徒歩約11分)が橿原市公式マップで案内されています。
多目的トイレは畝傍御陵前駅東駐車場にあります。周辺は道幅が狭いため、路上駐車は避けましょう。
所要時間の公式な目安はありません。礎石・塔跡・景観を見る屋外の史跡のため、藤原宮跡・大官大寺跡との「藤原京の宮と二大官寺めぐり」であわせて訪ねるのがおすすめです。
はい。本薬師寺跡は、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつです。2026年(令和8年)7月26日の世界遺産委員会で登録が決定しました。
世界遺産として価値の中心となるのは、金堂跡や東西塔跡などに残る古代寺院の考古学的遺構です。現地にある現在の小堂と、古代の本薬師寺の建物を混同しないようにしましょう。
まとめ:畝傍山を望む礎石に、双塔の伽藍を思い描いてみよう


本薬師寺跡の見どころを、あらためて整理します。
- 本薬師寺跡(橿原市城殿町)は、金堂跡の礎石と東西両塔の土壇・心礎が残る国の特別史跡。古代の建物は残りませんが、伽藍の「土台」を自分の足で確かめられます。
- 伽藍は、金堂の前に東西二つの塔が並ぶ薬師寺式(双塔式)。藤原京の右京八条三坊に計画的に配置された国家寺院で、藤原宮をはさんで大官大寺と対をなす「藤原京の二大官寺」の一つでした。
- 寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って発願し、持統天皇の時代に本尊開眼から完成へ進んだと伝えられています。
- 平城京の薬師寺との関係は、かつては「そのまま移された」と考えられていましたが、現在は別々に造られたという説が有力とされています。二つの薬師寺が並び立った時期があったかもしれない——想像はここまでふくらみます。
- 本薬師寺跡は、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつです(2026年7月26日登録)。
西ノ京に続く薬師寺、藤原京に残る創建地の礎石。——本薬師寺跡は、少ない遺構から藤原京の国家寺院を想像する、奥行きのある史跡です。奈良・西ノ京の薬師寺につながる「藤原京の薬師寺」を、はじまりの側から想像できる場所でもあります。
藤原宮跡や大官大寺跡とあわせて歩きながら、畝傍山を望む礎石の上に、東西二つの塔がそびえる姿を思い描いてみてください。
お出かけの際は、交通や見学まわりの最新の状況を、橿原市などの公式情報でご確認ください。
- 文化庁:国指定文化財等データベース「本薬師寺跡」(特別史跡の指定日・所在地を確認。確認日:2026-07-06)
- 文化庁:「飛鳥・藤原の宮都」に係る世界遺産委員会決議についてお知らせします(概要)(世界遺産登録決定・登録基準を確認。確認日:2026-08-06)
- 飛鳥・藤原 世界遺産登録推進協議会:構成資産ページ(構成資産としての本薬師寺跡、藤原京内の国家寺院跡、双塔式伽藍を確認。確認日:2026-07-06)
- 橿原市:観光情報「本薬師寺跡」(創建経緯、金堂礎石、東西両塔土壇、心礎、畝傍山の景観、アクセス、別造説が有力とする説明を確認。確認日:2026-07-06)
- 橿原市:文化財「本薬師寺跡【特別史跡】」(右京八条三坊、文武2年の完成、礎石、二つの土壇、薬師寺式伽藍配置を確認。確認日:2026-07-06)
- 橿原市:令和5年度発掘調査 現地見学会資料(南門南東隅の確認を確認。確認日:2026-07-06)
- 奈良県:歴史文化資源データベース「本薬師寺跡」(指定範囲、平安時代までの伽藍維持、医王院、発掘調査の概要を確認。確認日:2026-07-06)
- 薬師寺:公式サイト「お寺のご案内」(天武9年の発願、本尊開眼、西ノ京の薬師寺へ続く寺史、東塔の説明を確認。確認日:2026-07-06)
