「飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)」と聞くと、ひとつの宮殿を思い浮かべるかもしれません。
けれど実際には、7世紀の飛鳥に同じ場所へ重なって築かれた、複数時期の宮殿の跡です。
この記事では、飛鳥宮跡の歴史と現地で見られるもの、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産としての位置づけまでを整理します。
飛鳥宮跡とは(まず結論)

飛鳥宮跡は、奈良県高市郡明日香村にある7世紀の宮殿の遺跡です。
現在は国の史跡に指定されており、最初の指定は1972年(昭和47年)です。
発掘調査により、同じ場所に時期の異なる宮殿が重なって築かれたことが分かっています。
時代の背景。7世紀の飛鳥は、まだ平城京や平安京のような大きな都が完成する前の時代です。その飛鳥で、天皇の宮が同じ一帯に何度も営まれた中心地が、この飛鳥宮跡だと考えると、全体像をつかみやすくなります。

| 正式名称 | 飛鳥宮跡(旧称:伝飛鳥板蓋宮跡) |
|---|---|
| 所在地 | 奈良県高市郡明日香村 |
| 種別 | 国の史跡(特別史跡ではない) |
| 史跡指定 | 1972年(昭和47年)。その後、複数回の追加指定(最新は2025年) |
| 名称変更 | 2016年(伝飛鳥板蓋宮跡から飛鳥宮跡へ) |
| 指定面積 | 44,900.91平方メートル |
| 年代 | 7世紀(飛鳥時代) |
※種別や指定年は文化庁の国指定文化財等データベースで確認した内容です(2026年6月24日時点)。
飛鳥京跡との関係
飛鳥宮跡とよく似た言葉に「飛鳥京跡(あすかきょうあと)」があります。
「飛鳥京跡」は、発掘調査の初期に宮殿の名称を特定できず、周囲に京域が広がるとも想定されたことから付けられた調査上の名称です。
そのため現在も、「飛鳥京跡第○次調査」という発掘調査の呼び方に残っています。
呼び名の整理。長く続いた調査の積み重ねの中で、宮殿の中枢部にあたる範囲が、国の史跡「飛鳥宮跡」として整理されてきました。
みこ「飛鳥京跡」は調査の過程で付いた名称、「飛鳥宮跡」は宮殿の中枢部を中心とする国指定史跡の正式名称、と分けて理解すると整理しやすいです。
関連する史跡。飛鳥宮に付属した庭園の跡は「飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)」として、別に史跡・名勝に指定されています。
「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」へ ― 名称が変わった理由


かつてこの場所は「伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)」と呼ばれていました。
しかし発掘調査が進むと、板蓋宮だけでなく、時期の異なる複数の宮殿の跡が重なっていることが分かってきました。
そこで2016年、史跡の名称は「飛鳥宮跡」へと改められました。
名称変更のポイント。頭に付いていた「伝」は、そう伝えられているという意味合いの言葉でした。発掘で複数時期の宮殿が重なると分かり、「板蓋宮ひとつの跡」から「複数時期の宮殿が重なる場所」へと、理解そのものが新しくなりました。
名称変更がなぜ重要か
名称が変わったのは、単なる呼び名の更新ではありません。
ひとつの宮殿という見方から、複数時期の宮殿が重なる場所という理解へ変わったことを表しています。


名前が変わった意味。「板蓋宮の跡」という限定的な呼び方では、この場所が持つ歴史の広がりを十分に表せなくなりました。名称の変更は、長年の発掘調査で積み上げられた成果を、史跡の名前にも反映させたものだといえます。
「伝飛鳥板蓋宮跡」は「飛鳥宮跡」の旧称です。ただし、史跡の指定範囲は、その後の複数回の追加指定によって拡大しています。現地の案内や古い資料で旧称を見かけても、同じ史跡を指します。
飛鳥宮跡の歴史 ― 複数時期の宮殿が重なるまで


飛鳥宮跡では、1959年(昭和34年)以降の発掘調査で、掘立柱建物や塀、石組溝、石敷などの遺構が見つかっています。
調査の積み重ね。橿原考古学研究所の解説によると、この調査は一度きりではなく、平成28年度までに約180次という長い積み重ねになっています。こうした地道な調査が続けられたことで、同じ場所に時期の異なる宮殿が重なっているようすが、少しずつ明らかになってきました。
これらの遺構は、大きく三つの時期に分けて理解されています。
それぞれの時期がどの宮殿にあたるかは、研究上の有力な説として次のように考えられています。
| 時期区分 | 宮殿名 | 関わる天皇(有力説) |
| Ⅰ期 | 飛鳥岡本宮 | 舒明天皇 |
|---|---|---|
| Ⅱ期 | 飛鳥板蓋宮 | 皇極天皇 |
| Ⅲ-A期 | 後飛鳥岡本宮 | 斉明天皇・天智天皇 |
| Ⅲ-B期 | 飛鳥浄御原宮 | 天武天皇・持統天皇 |
このうちⅢ期はさらに細かく分けられ、後飛鳥岡本宮の時期(Ⅲ-A期)と飛鳥浄御原宮の時期(Ⅲ-B期)に整理されます。
どの遺構がどの宮殿にあたるかという比定は、確定した事実ではなく、研究上の有力な見方である点に注意してください。
この比定は、出土した木簡に書かれた文字や、いっしょに見つかった土器の年代などを手がかりに進められたものです。
四つの宮殿のうつりかわり
四つの宮殿は、7世紀の飛鳥でつぎつぎと営まれたと考えられています。
飛鳥岡本宮(Ⅰ期)は、舒明天皇(じょめいてんのう)の宮にあたると考えられ、いちばん古い時期の遺構が比定される、宮の重なりの出発点です。
飛鳥板蓋宮(Ⅱ期)は、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の宮で、のちにふれる乙巳の変の舞台として『日本書紀』に記されています。



Ⅰ期・Ⅱ期はおおむね7世紀前半、Ⅲ期は7世紀後半にあたります。同じ場所で天皇が代わるたびに、宮が新しく営まれていったと考えると分かりやすいです。
後飛鳥岡本宮(Ⅲ-A期)は、斉明天皇(さいめいてんのう)の宮と考えられ、岡本の地にふたたび宮が営まれたため頭に「後(のち)」が付けられています。
飛鳥浄御原宮(Ⅲ-B期)は、天武天皇(てんむてんのう)・持統天皇(じとうてんのう)の宮で、奈良県の解説では壬申の乱(じんしんのらん)ののちに営まれ、持統天皇8年(694年)の藤原京遷都まで続いたと整理されています。
つながりのポイント。飛鳥浄御原宮で藤原京へ移るまで、宮はおおむね同じ一帯に重なって営まれました。飛鳥宮跡をひとつの建物ではなく「7世紀の宮殿が積み重なった場所」として見ると、この流れが立体的にイメージできます。
飛鳥板蓋宮と乙巳の変
『日本書紀』では、飛鳥板蓋宮が645年の「乙巳の変(いっしのへん)」の舞台として記されています。
これは『日本書紀』に記された出来事で、のちの政治改革(大化の改新)の発端とされます。
『日本書紀』によれば、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが、宮の中で蘇我入鹿(そがのいるか)を倒したと伝えられています。
事件の影響。この事件をきっかけに、皇極天皇は弟へ位をゆずり、政治の仕組みを改める動きが進んだとされます。
ただし、これらは史料に記された内容であり、すべてがそのまま現代の確定事実というわけではありません。
飛鳥板蓋宮そのものの位置や範囲も、発掘調査で確定したというより、遺構の重なりから比定されている点に注意が必要です。
読み分けのコツ。『日本書紀』などの史料に書かれている内容と、発掘調査で確認された事実は、分けて読むと理解が整理されます。
現地で見られる遺構表示と飛鳥宮跡の見どころ


現地を訪れると、平らな広場に石が敷かれた一画が目に入ります。



一見すると、特別な建物が残っているわけではないため、物足りなく感じるかもしれません。でも、見方を知ると印象が変わります。
ここで大切なのは、いま見えているものと、地下に保存されているものを分けて考えることです。
飛鳥宮跡の遺構は、次の三つに整理すると理解しやすくなります。
| 発掘調査で確認された遺構 | 掘立柱建物・塀・石組溝・石敷・井戸など |
|---|---|
| 現地に復元・表示されているもの | 現在見られる石敷きは、飛鳥浄御原宮の遺構を復元したもの |
| 地下に保存されている遺構 | 復元された層の下に、後飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・飛鳥岡本宮に比定される遺構が重層的に残ると推定される |
下層の古い遺構をそのまま掘り出して見せるのではなく、いちばん上の時期を復元して示し、古い遺構は地下に保存しています。
こうした見せ方も、遺跡を守るための工夫のひとつです。
※現地の石敷きと下層遺構の関係は、奈良県の解説に基づいて整理しています。
宮殿を構成する三つの区画
飛鳥宮跡の最上層にあたるⅢ期の宮殿遺構は、内郭・外郭・エビノコ郭という三つの区画から構成されています。
ただし、すべてが同時に完成したわけではなく、外郭とエビノコ郭は内郭より後に整備されたと考えられています。
- 内郭:中心的な区画。建物や井戸の跡が見つかっている
- 外郭:内郭の外側。掘立柱建物・塀・石組溝などが確認されている。内郭より後に整備
- エビノコ郭:宮の南東の一画。こちらも内郭より後に整備されたと考えられている
このうち中心となる内郭は、橿原考古学研究所の解説によると、南北約197メートル、東西152〜158メートルほどの方形の区画とされています。
広い宮の中枢が、しっかりと区切られていたことがうかがえます。
エビノコ郭
宮の南東には「エビノコ郭(くるわ)」と呼ばれる一画があります。


ここは飛鳥浄御原宮にともなう遺構とみる説が有力で、宮が広がっていく後半の時期に整えられたと考えられています。
ここでは大型の建物跡が見つかっており、重要な施設があったと考えられています。
エビノコ郭の正殿。橿原考古学研究所の解説では、ここに飛鳥宮跡でとくに大きな正殿(せいでん)が建っていたとされ、宮の中でも格の高い一画だったとみられています。



「郭(くるわ)」は、区画されたひとまとまりの場所のことです。エビノコ郭は宮の中でも特別な一画と考えられています。
現地での見方
現地では、復元・表示されたものと、地下に眠る遺構を重ねてイメージすると分かりやすくなります。
現地の説明板の図を見ながら、どの時期の宮殿の話なのかを意識すると、遺跡の見え方が変わります。
たとえば、足元の石敷きは飛鳥浄御原宮のもの、その下には後飛鳥岡本宮や飛鳥板蓋宮の層がある、というように、上から下へ時代をさかのぼるイメージを持つと整理しやすくなります。
見学のひと工夫。「いま見ているのは復元、地下にはもっと古い宮殿が重なっている」と意識するだけで、平らな広場が立体的に見えてきます。事前にこの記事で時期の流れをつかんでおくと、現地での理解がぐっと深まります。
あわせて知りたい飛鳥京跡苑池


飛鳥宮跡を理解するうえで、あわせて知っておきたいのが「飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)」です。
これは、飛鳥宮にともなう庭園の跡で、飛鳥宮跡とは別に、国の史跡・名勝に指定されています。
明日香村の解説によると、苑池は南北二つの池からなり、石組みで護岸された当時の宮廷の庭園のようすが分かる遺跡です。
あわせて見ると分かること。宮殿で政治が行われるそばに、こうした庭園がともなっていたことは、当時の宮のすがたを考えるうえで大切な手がかりになります。宮殿の遺構である飛鳥宮跡と、それにともなう庭園である飛鳥京跡苑池を分けて押さえておくと、当時の宮のすがたをより立体的に想像できます。



「飛鳥京跡苑池」は名称に「飛鳥京跡」を含みますが、宮殿そのものである「飛鳥宮跡」とは別の指定史跡・名勝です。混同しないようにしましょう。
※飛鳥京跡苑池の指定区分・整備状況は、明日香村・奈良県の公式情報で確認した内容です(2026年6月25日時点)。
見学メモ(アクセス・現地での注意)


飛鳥宮跡へは、近鉄橿原神宮前駅または飛鳥駅から明日香周遊バスを利用できます。
奈良県の案内では、「岡天理教前」で下車し、徒歩約5分とされています。
屋外の遺跡のため日陰が少なく、夏場は暑さ対策があると安心です。
- 周辺には飛鳥寺や石舞台古墳など、飛鳥時代の史跡が点在している
- 明日香周遊バス・レンタサイクル・徒歩を組み合わせて、いくつかの史跡をまとめて巡る人も多い
- 遺跡は平らな広場が中心だが、周辺は道幅が狭い場所や坂もあるため、歩きやすい靴がおすすめ
まちがえやすい点。明日香村には「国営飛鳥歴史公園」がありますが、飛鳥宮跡はその公園の区域には含まれていません。公園の開園時間などの情報を、そのまま飛鳥宮跡の見学情報と思わないようにしましょう。



発掘調査や整備工事などで見学できる範囲が変わることがあります。訪問前に、奈良県・明日香村・登録推進協議会の案内をご確認ください。
- アクセス・観光案内:奈良県観光公式サイト(飛鳥宮跡)
- 史跡・周辺情報:明日香村 公式ホームページ
- 世界遺産の最新情報:飛鳥・藤原 世界遺産登録推進協議会
※本記事の現地情報は2026年6月24日時点の整理のため、最新の状況は各公式でご確認ください。
世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」と飛鳥宮跡の関係


飛鳥宮跡は、2026年7月26日に世界文化遺産として登録された「飛鳥・藤原の宮都」を構成する、19件の構成資産のひとつです。
「飛鳥・藤原の宮都」とはどんな資産群か
「飛鳥・藤原の宮都」は、6世紀末から8世紀初頭にかけての宮殿・官衙跡、仏教寺院跡、墳墓から成る遺跡群です。
文化庁の発表では、登録基準(ii)と(iii)に基づき、世界遺産一覧表へ「記載」することが決議されたと整理されています。登録推進協議会の解説では、東アジアの国々との交流を通じて、律令制度にもとづく中央集権国家が日本で形づくられていった過程を伝える資産群と位置づけられています。
19件の構成資産は、大きく次の三つのまとまりに分けて理解できます。
- 宮殿・官衙(かんが)の跡:飛鳥宮跡や藤原宮跡など、政治の中心を示す遺跡
- 仏教寺院の跡:飛鳥寺跡や山田寺跡など、大陸から伝わった技術や信仰を示す遺跡
- 墳墓:石舞台古墳やキトラ古墳・高松塚古墳など、国家形成期の有力者の墓
この中で飛鳥宮跡は、宮殿・官衙の跡にあたる中心的な資産のひとつです。
登録推進協議会は、天皇の代替わりごとに場所を変えていた宮殿が、しだいに一か所に定着していく転換点を示す遺跡として、飛鳥宮跡を位置づけています。



記事の前半で見た「同じ場所に宮殿が重なっていく」という飛鳥宮跡の特徴は、宮が一か所に定まっていく古代国家のあゆみとも重なっています。
世界遺産登録までの歩み
この資産群は長い準備期間を経て、2026年7月の第48回世界遺産委員会で世界遺産一覧表への「記載」が決議されました。
これまでの主なできごとを、次に整理します。
| 時期 | できごと |
| 2007年 | 世界遺産の暫定一覧表に記載 |
|---|---|
| 2024年4月 | 推薦書素案を文化庁へ提出 |
| 2025年1月 | 閣議了解を経て、正式版の推薦書をユネスコへ提出 |
| 2026年6月 | ICOMOSが「記載」が適当と勧告 |
| 2026年7月 | 第48回世界遺産委員会で世界遺産一覧表への「記載」を決議(韓国・釜山、7月26日) |
現在地の確認。飛鳥宮跡は、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産です。現地のすべての施設や周辺一帯を一括して世界遺産と呼ぶのではなく、登録範囲と見学できる場所は分けて確認するのが大切です。
※世界遺産に関する情報は2026年7月26日時点の公式発表をもとに更新しています。登録範囲や見学条件は、文化庁・UNESCO世界遺産センター・奈良県・明日香村・登録推進協議会の公式情報でご確認ください。
よくある質問


飛鳥宮跡と飛鳥京跡は何が違いますか?
「飛鳥京跡」は、発掘調査の初期に宮殿名を特定できなかったことなどから付けられた調査上の名称で、今も「飛鳥京跡第○次調査」という呼び方に残っています。「飛鳥宮跡」は、宮殿の中枢部を中心とする国指定史跡の正式名称です。
「伝飛鳥板蓋宮跡」と同じ場所ですか?
「伝飛鳥板蓋宮跡」は「飛鳥宮跡」の旧称です。2016年に名称が変更され、その後の追加指定によって史跡の指定範囲も拡大しています。
現地では何が見られますか?
復元・表示された飛鳥浄御原宮の石敷きなどが見られます。その地下には、後飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・飛鳥岡本宮に比定される遺構が重層的に残ると推定されています。
飛鳥宮跡はいつの時代の遺跡ですか?
7世紀の飛鳥時代の宮殿の遺跡です。同じ場所に時期の異なる宮殿が重なっており、飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮にあたると考えられています。
飛鳥浄御原宮はどの天皇の宮ですか?
天武天皇・持統天皇の宮にあたると考えられています。奈良県の解説では、壬申の乱ののちに営まれ、持統天皇8年(694年)の藤原京遷都まで続いたと整理されています。
飛鳥宮跡と飛鳥京跡苑池は何が違いますか?
飛鳥宮跡は宮殿そのものの遺跡で、飛鳥京跡苑池は飛鳥宮にともなう庭園の跡です。名称は似ていますが、別々に国の史跡などに指定されています。
飛鳥宮跡は世界遺産に登録されていますか?
はい。飛鳥宮跡は、2026年7月26日に世界文化遺産として登録された「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつです。
まとめ


飛鳥宮跡は、ひとつの宮殿ではなく、7世紀に同じ場所へ重なって営まれた複数時期の宮殿の跡です。
現地で見える石敷きは飛鳥浄御原宮の復元で、その下にさらに古い宮殿の遺構が眠っているという重なりを意識すると、平らな広場の見え方が変わります。
また、飛鳥宮跡は世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつです。史料に書かれた歴史と、発掘で確かめられた遺構を分けて思い浮かべると、平らな広場がぐっと豊かに見えてきます。


- 正式名称・指定状況:文化庁 国指定文化財等データベース「飛鳥宮跡」
- 発掘調査・遺構:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館「大和の遺跡/飛鳥宮跡」
- 飛鳥浄御原宮・下層遺構:奈良県「飛鳥浄御原宮(飛鳥宮跡)」
- 史跡の概要:明日香村 公式「飛鳥宮跡(国指定史跡)」(※指定面積・最新の追加指定日は、文化庁「国指定文化財等データベース」を参照)
- 世界遺産登録決定・資産名・登録基準:文化庁「『飛鳥・藤原の宮都』に係る世界遺産委員会決議についてお知らせします(概要)」
- 英語名称・登録年・登録基準・登録番号:UNESCO World Heritage Centre “Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara”
- 世界遺産・構成資産:飛鳥・藤原 世界遺産登録推進協議会(構成資産)
